昔々、ブリタニアに一人の皇子様がいました。
皇子様には二人のお兄さまがいました。しかし、この皇子様だけ母君が違っていたからでしょうか。お兄さま達はこの皇子様達をいじめていました。
あるいは、お后様が異国の方だったからかもしれません。
それでも、王様は異国から嫁いでこられたお后様と、そのお子様方を愛しておられました。
皇子様も、母君と妹君。そして、普段は一緒にいられないものの王様がいてくれればよかったのです。
そんな皇子様の日常が一変したのは、自分たちを守ってくれていた王様が亡くなられた日でした。
その日から、皇子様達の周囲には敵しかいなくなったのです。
異国から来たお后様を気に入らない者達がたくさんいました。それと同じくらい、きょうだいたちの中でも優秀な皇子様が気に入らない人々もいました。
やがて、そんな人たちの悪意は、まだ幼い妹君へと向けられました。
妹君を守るための力が欲しい。
母君と妹君が笑っていられるような世界を作れる力が。
だが、自分に何が出来るのだろうか。
皇子様はそれを探すために王宮の古い書庫を調べ始めました。
そうして、どれだけの書物を調べたときでしょうか。皇子様の耳に聞こえるはずのない声が届きました。
『力をやろうか?』
それは間違いなく《女》の声でした。しかし、声の主は見えません・
「誰だ!」
皇子様の問いかけにも、言葉を返してきません。
『力をやろうか? 世界を変えられる力を』
ただ、こう繰り返すだけです。
そんな声を信じられるものでしょうか。
しかし、ここにいればこの言葉に頷かずにはいられない。
どんな力でも、力には違いない。
そう囁く声も皇子様の心の中にはあったのです。
でも、この誰とも知れない者から貰った力が、自分たちを不幸にしないとは限らない。
だから、とこの場から逃げ出しました。
しかし、ここでなければ調べられないことも多いのです。
皇子様はまた次の日もその場を訪れました。
同時に、またあの声が響いてきます。
『力をやろうか? 世界を変えられる力を』
何度も何度も、声は皇子様を揺さぶろうとするかのようにこう囁いてきました。
「……私は、今の優しい世界があればいい……」
それがどれだけ狭いものだったとしても構わない。
母と妹が微笑んでいてくれるなら。それだけでいいのだ。
自分が欲しいのは、その世界を守るための力。
それ以上でもそれ以下でもない。
「だから世界を変える力なんて、必要ない」
皇子様はそういいきりました。
次の瞬間、小さな笑いが皇子さまも体を包みます。
『愚かな』
その笑いと共にこんな言葉が皇子様の耳に届きました。
『きっと、あなたは力を欲する』
世界はそんなに優しくないから。
「誰だ!」
今までの囁きとは違うその声音に、皇子様は問いかけます。しかし、その答えは返ってこない。
代わりに、またあの囁きが押しかけてくるだけでした。
必要な力を得る方法を見いだせないまま時間ばかりが過ぎていきます。
その間にも、皇子様達に向けられていた悪意は育っていたのでしょう。ただ、ぎりぎりのところでバランスを取っていただけなのです。
そのバランスが、ある日崩れてしまいました。
「何故……」
目の前で崩れ落ちているのは、優しかった母君です。その閉じられた瞳はもう二度と開きません。優しい声で皇子様の名前を呼んでくれることも、です。
そして、その傍にいたはずの妹君の姿は、どこにもありませんでした。
「……どうして……」
何故、こんなことになったのでしょうか。
いったい、自分たちが何をしたというのでしょうか。
皇子様の中で抑えていた怒りがふくれあがりました。
『力をやろうか? 世界を変えられる力を』
その時です。またあの囁きが耳に届きました。
『復讐をするための力を』
さらに別の囁きも、です。
「私は……」
そんなことをしても、母君も妹君も帰ってこない。そのことを皇子様は知っていました。
しかしこの怒りをどうすればいいのか。それがわかりません。
『力をやろうか? 世界を変えられる力を』
そうすれば、あるいは……と声はさらに囁きを重ねてきます。
「……私と、同じ思いを……」
そうすれば、己がどれだけ愚かなことをしたのか、相手にもわかるだろうか。不意にそんな考えが皇子様の中にわき上がってきます。
『力をやろうか? 世界を変えられる力を』
そんな皇子様の心を引きずり込もうとするかのようにまた囁きが聞こえます。
「力を……こんな世界を打ち壊す力を!」
とうとう皇子様はその囁きにこう答えてしまいました。
囁きが導くまま、皇子様は宮殿の奥にあった剣に手を伸ばしました。
その時です。
何かが皇子様の心を強引にその奥へと押し込めてしまいました。いいえ。それは少し違います。皇子様の体を何者かが乗っ取った……という方が正しいのでしょうか。
「ようやく、自由に動ける体を手に入れたわ」
ふふふ、と笑いを漏らしながら皇子様であって皇子様ではない人がゆっくりと歩き出します。
「では、世界を壊しましょうか」
その手には、あの剣がある。
「ブリタニアの血、消してやるわ」
さらに彼――と言っていいのでしょうか――が呟いたときです。
「それはやめておけ」
鮮やかな緑が姿を現しました。
「それに我らの声が聞こえた。そして、お前が入ったことで、あの方の血が目覚めたようだぞ」
この言葉に、彼は何かを確認するかのように目をつぶりました。
「確かに、そのようね……あれの血のせいかしら」
ブリタニアにも、元々あの方の血は流れていたのだもの、とそう続けます。
「なら、そうすることであの方を呼び戻すことが出来るのかしら? まぁ、それについてはあなたに任せるわ」
と彼は微笑みと共に口にしました。
「本当にお前は……ただし、全部は殺すなよ? 可能だとわかったときにそれ以外、一人も残っていなければ意味がない」
「もちろんよ」
そういいながら、彼はその場を後にします。
「残念だったな。お前の封印を解いたのは、お前の子孫だぞ」
それを見送った後、彼女はこう呟くように口にしました。そして、現れたときと同じように姿を消します。
その瞬間、剣が置かれていた台に、涙のような雫が流れました。
その後、皇子様の体を奪ったそれは、血に飢えた獣のように兄たちを、そしてそれに従う貴族達を叩きつぶしていきました。
その者達を叩きつぶした後には、他の貴族達へ。
自分に逆らう者がいなくなったときには、周囲の国々へ。
それは魔の手を伸ばしていきます。
その光景を見つめながら皇子様は悲しんでいました。
どうして、こんなことになってしまったか。
自分が力を望んだことがいけなかったのか。いくら考えても答えは見つかりません。
それでも、自分がこれを解きはなってしまったのは事実。
いったい、どうすればこれを再び封じ込めることが出来るのか。
皇子様は目の前の光景を見つめながら必死にそれを考えていました。
それから、どれだけの時間が経ったでしょうか。
見ている世界が真っ赤に染められたような感覚に襲われ始めたある日のことです。
皇子様は誰かの呼び声を聞いたような気がしました。
しかし、今の自分にこんな風に呼びかけてくれる者なんているはずがない。
皇子様はそう考え、それを無視しようとしました。
でも、その声は何度も何度も呼びかけてきます。
それだけではありません。
皇子様は不意に気が付きました。
その声は外から聞こえてくるのではありません。自分の中から聞こえてくるのです。
「……何故……」
どうしてそんなことが出来るのか、それはわかりません。
それでも、この声は今の《自分》を止めてくれるかもしれない。いやきっと止めてくれるはず。
皇子様は何故かそう思いました。
だから、その声に耳を傾けました。
はじめは何と言っているのかよく聞き取れませんでした。しかし、少しずつ声がはっきりとしてきます。
「まさか……」
それは、行方がわからなくなっていた妹君の声でした。
妹君は誰かにさらわれたわけではなかったのです。望まない結婚を押しつけられて、大好きだった人の所へ逃げたのでした。それには、母君も手を貸していたのです。
そして、妹君は今の皇子様が本当の皇子様ではない、と気付いてくれたのです。
しかし、と皇子様は呟きます。
それならば、どうして自分には教えてくれなかったのでしょうか。知っていれば、あれを解き放つようなことをしなかったのに、と嘆くように付け加えます。
『それもまた、魔女の呪い』
妹君の声に被さるように、別の声がこう囁いてきます。その声は、どこか母君のそれに似ているような気がしました。
そんなはずはないのに、何故そう思うのでしょうか。
『魔女は、ブリタニアを恨んでいる。かつて、大切なものを奪われたから」
その声は、そう囁いてきます。
『でも、それはしかたがなかったこと。恨みだけでは、世界は何も変わらない』
確かに、そうかもしれない。皇子さまは心の中で呟きます。
『だから、あれらの願いを叶えてはいけない』
あれらを止めるために力を貸して欲しい。そういわれても、今の自分に何が出来るでしょうか。
『最初から諦めていれば、何も出来ない』
自分自身の全てを書ければ、出来ないことなど何もないのだ。そう声は続けます。
「……私は、少しでも償うことが出来るのだろうか」
出来なくても、今行われていることを止めることが出来るのか。
皇子様のその問いかけに、その声は同意の意志を伝えてきました。
皇子様は、自分の体を取り戻そうと、それからあがき始めます。
「無駄なことを」
それはそういいながらあざ笑うような笑みを口元に刻んでいました。
しかし、ほんの僅かな時間だけでいいのです。誰かが、あの剣を《自分》から取り上げるまでの時間だけで。
その位なら、何とかなるのではないか。
「これは……私の体だ……」
だから、取り戻さなければいけない。
そして、自分が犯した罪を償わなければいけない。
その思いのまま、皇子さまは必死にあがき続けていました。
そして、一瞬だけとはいえ、体の自由を取り戻せるようになったのです。
「……まったく……」
大人しくしていれば、世界を与えてやるのに、とそれは不満そうです。
「お前にしては珍しい」
その時です。あの緑色の髪の魔女が姿を現しました。
「それとも……それでもあの方の血を引いているからか?」
だから、自分たちの《力》が完全に効かないのか……彼女は続けます。
「どちらだろうと気に入らないことに代わりはないわ。本当、どうしてやろうかしら」
それはこんな呟きを漏らします。
「無理はするな。それはまだまだ必要だろう?」
それの血を引く子供にこそが……と緑色の髪の魔女が問いかけました。
「忌々しいことにね」
ブリタニアの血を消すことが出来ない。その事実ほど忌々しいことはない。それはそう続けます。
「でも、もう少しよ」
「あぁ。そうだったな」
皇子様の元に、ご機嫌伺いのように差し出された女性達がいました。その中の一人がもう少しで赤ちゃんを産みそうなのです。
「私の子をどうするつもりだ!」
自分が望んだわけではありません。それでも、間違いなく自分の子供だと皇子様は知っています。その子供に、自分と同じような運命を歩かせたくない。
そう考えたときです。
皇子様は自分の体が自由に動くことに気が付きました。
「……お前のせいで!」
言葉とともに腰の剣で緑の魔女に斬りかかります。
「そのようなもので、私は斬れないぞ?」
あきれたように魔女が言い返します。
「斬れなくても、封じることは出来るわ」
その声に被さるように聞き覚えがある声が周囲に響きました。
それが誰の声なのか、皇子様にはわかっています。
「消えなさい! 今の世界に、あなた方は不要なの」
同時に、もう一つの声が聞こえてきたのは皇子様の錯覚ではないでしょう。
「また、お前か!」
魔女が叫びます。
「何度でも、私はあなた方の邪魔をするわ。私の愛おしい者達を守るために」
言葉とともに妹君の中から姿を現したそれは、皇子様の手から剣を取り上げました。
「だから、消えなさい」
次の瞬間、周囲を光が包み込みました。
全ての光が消えたとき、皇子様は何年かぶりで自分自身を取り戻していました。
「……魔女は?」
しかし、あれらが逃げて伸びていれば、また同じような事態が引き起こされるかもしれません。そう思って、皇子様は問いかけました。
「力の多くは奪いました」
しかし、その存在を消すことは出来なかった。おぼろげな姿を揺らめかせながらその声は告げます。
「残念ですが、今の私にはあれらを追いかける力はありません。今ここにいられるのも、あの魔女から奪った力があるからです。それが失われればどうなるか」
言葉とともにその人影は目を伏せました。
「……それでも、あれらをのさばらせておくわけにはいきません」
皇子様はきっぱりとした口調で言いました。
「あれらがどのような存在を知らずに解放したのは私です。その責任を取らなければいけません」
さらに皇子様はこう続けます。
「それを言うのでしたら、あれらを滅ぼせなかった私も悪いと言うことです」
この言葉で、皇子様にはこの人影が誰なのか、わかったような気がしました。
「なら、お付き合い頂けますか?」
自分はあれらを追わなければいけない。しかし、あれらについて、何も知らないに等しい。だから、また失敗をしてしまうかもしれない。皇子様はそう考えました。
「あなたも、あれと同じように人の心に潜むことが出来るのでしたら、私の体をお使いください」
そうすることで目の前の存在が消えることなくあれらを追い続けられるならば、それでいい。皇子様がそう考えているのがわかったのでしょうか。
「あなたは今この世界で、自分のしたことの責任を取った方がよいのではありませんか?」
その人影はこう問いかけてきました。
「お兄さま……」
妹君も、不安そうな表情で声をかけてきます。
「いえ。もう既に、私の名は地に落ちています。今更私が責任を取ろうとしても、人々の不安をぬぐい去ることは出来ないでしょう」
それが皇子様の意志ではなかったとしても、この事実を引き起こしたのは間違いなく皇子様の姿をしたものなのです。
第一、どう説明しても信じてくれるものはいないでしょう。
「それよりも、私が死んだことにした方がブリタニアのためになるでしょう」
こう言いながら、皇子様は視線を妹君に向けます。
「お前には辛い思いをさせることになるかもしれない」
自分が表舞台から消えることで責任について糾弾されるのではないか、と皇子様は口にします。
「だが、お前が私を殺したとなれば、その糾弾の手もゆるむかもしれない」
皇子様のこの言葉に、妹君は驚いたように目を見開きました。
「お兄さま」
「そして、お前は私のような愚かな存在が出ないよう、伝えていって欲しい」
そうすることが妹君の責任の取り方だ。皇子様はそう続けます。
皇子様の表情から、妹君は彼がどのような懇願にも己の意志を変えないと気が付いたのでしょう。
「元々は、わたくし責任。わかりました」
二度と会えないかもしれない。
それでも、自分たちが皇族である以上、己のなすべき事をなさなければいけないのです。
「わたくしが、お兄さまの代わりにブリタニア皇族を再び」
切り裂かれるような痛みを感じながら、妹君はこう告げました。
「すまない」
全ての責任を押しつけるかもしれない、と皇子様にもわかっておりました。それでも、そうするしかないのです。
「では、参りましょう」
人影がこう口にします。それに皇子様は頷いて見せました。
その日、王宮には血にまみれた皇子様のマントだけが残されました。そして、玉座から背後の断崖へと続く血の後です。
それを見て、誰もが妹君の言葉を信じました。
いや、信じたがったといった方が正しいのかもしれません。
それでも、妹君への冷たい視線は存在していました。しかし、それに負けることは皇子様の気持ちを無駄にすることだと、妹君はいつでも毅然と顔を上げていたのです。
そんな妹君に、新しく王となった方が求婚されたのはそれからしばらくしてのことでした。妹君は心の痛みを覚えつつも幸せに暮らしました。
ただ、皇子様の血を引いた子供を宿した方がどこに消えたのか。
それを知るものが誰もいないという事実だけを残して。
終
09.06.26 日記から移動
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