その日、スザクは不幸のどん底にいた。
 せっかくの合コンは自称婚約者のせいで台無しになるし、いい雰囲気になっていた相手にも振られた。
 それでふてくされていたのが悪かったのか。
 一番、時給のよかったバイトも、今月で契約を打ち切られてしまった。
「まったく……俺は苦学生なんだぞ」
 親のひいたレールから外れてしまったせいか、大学に入学すると同時に縁を切られてしまった。もちろん、仕送りなんてしてもらえない。
 だから、せめて奨学金を……と思っても、実家に無駄にお金があるせいで受けられなかった。その結果、バイト三昧の日々を送ることになる。
 だからといって、学業をおろそかにするわけにもいかない。
 そんな自分にとって、あのバイトは学業と収入を両立するために必要だったのだ。
「本当、どうしよう……」
 また新しいバイトを探すしかないのだが、そうそううまいバイトが見つかるとも思えない。このままでは家賃も払えなくて、アパートを追い出されてしまいそうだ。
「……それもこれも、神楽耶が悪いんだ……」
 彼女が押しかけてこなければ、あるいは……と考えてしまうのは八つ当たりだとわかっている。
 それでも、彼女が自分を見つけてから一期に運気が下がったような気がするのは錯覚だろうか。
「本当に……」  スザクがため息とともに言葉をはき出したときだ。
「……えっ?」
 スザクの耳にその鳴き声が聞こえたのは。
「猫?」
 いったい、どこで……と思いながら周囲を見回す。こんな所にいたら、死んでしまうかもしれない。飼える飼えないは別にして、保護をしないと。そう思ったのだ。
「ほぉ」
 人がいた気配はなかったはず。
 しかし、そこには確かに人影があった。しかも、少女だ。
「これの声を聞いたか」
 彼女の腕の中に、小さな黒猫が抱きかかえられている。その猫はスザクの視線に気付いたかのように、また、甘えた声を上げた。
「そうか」
 にやり、と少女は笑う。
「そいつの所に行きたいか」
 この言葉にスザクの方が慌てる。
「ダメだよ! 俺が住んでいるアパートはペット禁止だから」
 第一、自分の生活費も危ないのに……とついつい付け加えてしまう。
「心配するな」
 しかし、彼女はこう言ってさらに笑みを深めた。
「お前がこれの面倒を見てくれるというのであれば、すむところは私が用意してやろう」
 しばらく、この国を離れなければいけないからな……と少女は付け加える。
 この言葉に、スザクはどうしようかと悩む。家賃の負担がなくなれば、バイトを増やさなくても何とかなる。しかし、どこまで信用していいのだろうか。
「もちろん、家賃は取らん。ついでに光熱費もただだ」
「……とりあえず、その場所を確認させて貰ってからでいいかな?」
 かなりぐらぐらしていることは事実。しかし、それが嘘だったらショックを受けるどころではない。だから、とスザクは口にした。
「もちろんだ」
 十分満足すると思うぞ、と少女は笑う。
「必要なら、書類も見せてやろう」
 ついでに、きちんと契約書も作らせるぞ。
「まず、確認させて貰ってから、だね」
 口約束ほど怖いものはない。それを実感させられたばかりだから……と心の中で付け加える。
 そんなスザクの気持ちに気付いたのか。少女の腕の中で黒猫はまたか細い声を上げた。

 何だかんだと言って、家賃ただ。光熱費ただ、と言う条件にはあらがえなかった。
 それ以上に自分に懐いてくれる黒猫――ルルーシュが可愛かったから……と言うことは否定できない事実かも知れない。
 スザクは、少女――C.C.というのは本名ではないはず――が明け渡してくれた家へと引っ越し、ルルーシュの世話をすることになった。
 もちろん、バイトも続けている。そうしなければ、それ以外の費用が出せないからだ。
 しかし、とスザクはエントランスをくぐりながら呟く。
 それが人間ではないとはいえ、誰かが自分の帰りを待っていてくれる。
 その事実だけでもこんなにどこかに返るのが嬉しくなるとは知らなかった。今まで、自宅でもどこでも、自分は一人だったのだ。
 いや、待っていてくれる人はいた。
 しかし、それはあくまでも義務であって、本心からそう思ってくれていたとは考えていない。だから、枢木の家もどこか寒々しかったのだ。
 でも、今は違う。
 エレベーターに乗り込みながら、スザクはそう考える。
 家に帰れば、きっとルルーシュが出迎えてくれるはずだ。猫だから、犬のように全身でうれしさを表現してくれるわけではない。それでも、彼は間違いなく自分が帰ってくるのを喜んでくれているはず。
 それに、とエレベーターが上昇していくのを感じながら、さらにスザクは付け加えた。
「ルルーシュは、俺が世話をしないと死んじゃうから……」
 あの小さな命を守るのは自分だ。
 そう考えるだけで、何でもないことが凄く重要に思えるのはどうしてなのだろう。それとも、これが責任を自覚した……という状況なのだろうか。
「どうなんだろうね」
 問いかけても、答えを返してくれる相手はいない。
「まぁ、いいか」
 そして、スザクもあまり物事を深く考える方ではなかった。
「ルルーシュは可愛いし、今はとっても充実しているし……だから、いいよな」
 こう結論を出したところで、エレベーターが止まる。そして、涼やかな音を立ててドアが開く。
 エレベーターをでて、そのまま前に進めば、ルルーシュが待っている部屋の玄関へとたどり着く。
 鍵を開けて、部屋の中に足を踏み入れれば、自動で玄関のライトがともる。
 その瞬間、スザクの口元に笑みが浮かんだ。
 玄関のマットの上に、艶やかな黒い毛並みの猫が丸くなっているのが見えたのだ。
「ただいま、ルルーシュ」
 この言葉とともにスザクは靴を脱ぐためにそっとルルーシュの隣に腰を下ろす。
 同時に、ルルーシュがうっすらと目を見開く。
「ごめん、起こした?」
 この問いかけに、ルルーシュは大きなあくびをしてみせる。そのまま、しなやかな背筋を大きくのけぞらすように伸びをする。
「ルルーシュ?」
 どうしたの、と問いかけるよりも先にルルーシュはまだ靴を脱ぎ終わってはいないスザクのひざの上へと乗ってきた。
「ルルーシュ……そこで丸くなられると、靴が脱げないだろう?」
 頼むから、後一分待って……と彼は続ける。
 しかし、天上天下唯我独尊、と言ったそぶりのこの黒猫さんは聞く耳を持っていないようだ。それどころか『文句あるのか?』というように、そのロイヤルパープルの瞳で見上げてくる。そして、まるで挑発するかのようにあくびをして見せた。そのまま彼はスザクのひざの上で丸くなる。
「……ルルーシュ……」
 お願いだから、とスザクは口にした。
 もちろん、その気になれば簡単にどかすことが出来る。しかし、この可愛い生き物に無理を強いることはしたくない。そう考える自分は、既に末期状態なのだろうか。
「このままここにいると、晩飯、食べられないんだけど……」
 俺が、とスザクはため息をつく。
「……それでも、いいわけだ、ルルーシュは」
 目を閉じたまま、ごろごろと喉を鳴らし始めた彼に、スザクは苦笑を浮かべる。
「本当にワガママだよな」
 まぁ、それが可愛いんだけど。こう言いながら、スザクは慎重にルルーシュの体を撫でていく。そうすれば、ますますごろごろという音が高くなる。
「……ここでもいいけど、暖かい部屋の中の方がもっとゆっくりと撫でてやれるんだけどな」
 ついでに、そのまま眠ってもいいのに、とそう続けた。
「布団で一緒に寝る方が幸せだろう?」
 その小さな背中を撫でる手の動きを止めることなくスザクは告げる。その瞬間、ルルーシュは目を開けた。そして、そのままスザクの肩へとよじ登っていく。
「ありがとう、ルルーシュ。わかってくれて、嬉しいよ」
 苦笑と共にスザクは言葉を口にした。
 そうすれば、ルルーシュは自慢げに一声鳴いてみせる。
「はいはい。今、靴を脱ぐから」
 落ちるなよ? 声をかけながら、スザクは手早く靴の紐をほどいてゆるめていく。そして、出来るだけ体を揺らさないように脱いだ。
 そのまま、鞄を片手に立ち上がる。
「あぁ、そうだ。試供品を貰ってきたから、味見をしてみろよ?」
 食べるようなら、買ってきてやるから。そう続けながら、リビングへと向かう。と言っても、そこに私物だけではなく布団も置いてある。そこで生活していると言っていい。
 それもこれも、ルルーシュといる時間を少しでも長くするためだ。
「結局……おぼれているのは俺の方かもな」
 自分の生活を省みて、スザクは自嘲の笑みを浮かべる。それでも、今が幸せだからいいのか。そう結論づける。
「このまま、ずっと一緒にいられたら、もっといいんだろうな」
 彼女が帰ってきたら、ルルーシュと別れなければいけない。このマンションを追い出されるのは構わないが、それだけが辛い。スザクはそう呟く。
 その言葉に応えるかのように、どこからか少女の忍び笑いが響いてくる。しかし、スザクはそれに気付かなかった。

 結論を言えば、スザクがここを追い出されることはなかった。しかし、それはまた別の話だろう。







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08.12.08 up