【君は可愛い僕の黒猫】



 私立香我美山学園高等部
 そう書かれてある校門の前に一台のハイヤーが止まった。そこからするりっと一人の少年が降り立つ。
「……何か……思いっきり場違いみたい、僕……」
 目の前にデンとそびえる門を見上げて、佐久山詩桜(さくやましおう)は呆然としてしまった。
 死んだ父方の祖母がフランス人だというだけあってどこかビスクドールめいた容貌以外はまるっきり『庶民』としか言いようのない詩桜が、よりによって『上流社会御用達』の名門校に転入する羽目になったのか……
(母さんが選んだ人だから文句は言えないけど……)
 ため息とともに思わずこう呟いてしまう。
「……前の学校でもよかったのに……」
 と。
 義父になった人に『我が家の方針だから』と言われて受けた編入試験。これに落ちていればまだこういう結果にならなかったかもしれない。
(でも、試験で手を抜くなんてできなかったし)
 成績上位であれば受けられた奨学金目当てに入学した身である以上『試験』と名の付くものには手を抜けない自分の性格がこれほど恨めしく思えた事はなかった。
『君の義理の兄になる私の息子もいるから』
 心配しなくていいよと放り出される結果になってしまうとは……
「……お義父さんには悪いけど……ここで帰っちゃ駄目かなぁ、僕……」
 手にしていたボストンバックの把手をきつく握りしめながら思わず本気でそう思ってしまう。
 だが、詩桜が回れ右をする前に
「佐久山詩桜君だね……待っていたよ」
 門の奥から穏やかな微笑みとともにそう声を掛けてきたものがいた。
(……万事休す……)
 心の中で泣きそうになりながら、それでも詩桜は笑みを作って頷いて見せたのだった。

「まったく……いい加減『ヘルパー』を決めてくれないか?」
 生徒会室に足を踏み入れるとに、生徒会議長の東宮春樹(とうみやはるき)は会長の右近橘にそう声をかけられた。
「君のヘルパーになりたいって、また1年の間で喧嘩が起こったそうだよ……新聞部なんかは賭のネタに使っているそうだし」
 そう言いながら、橘は軽く手を振る。と同時に、可愛らしい容貌の少年がすかさずマイセンのティ・カップを二つ銀のお盆に乗せて運んできた。
 『ヘルパー』とは、ここ香我美山学園に伝統として伝わってきた制度である。
 成績優良者へ与えられる一種の特権……と云えばいいのだろうか。
 主に下学年から自分の好みに合う少年を一人選び出して身の回りの世話などをさせる。もちろん、寮でも同室になる。――その代わり、彼の成績については責任を負わねばならないのだが――当然、『性的』な行為もあり得た。
 一種の『恋人宣言』と取られる様になっても仕方がないのかもしれない。
 だが、その特権を無条件で与えられる生徒会役員の中で、春樹一人だけ『ヘルパー』を持っていなかった。
 当然、その座を争う者達が出る。もっとも、本人が無関心だっから無駄な努力なんだけど……
 その事を橘が皮肉るのはいつもの事である。しかし、今日の春樹の返事はいつもと違った。
「あぁ、その事だが……申請書はこれでいいんだよな」
 そう言いながら、ブレザーの内ポケットから一枚の紙を取り出す。
「えっ?」
 橘は一瞬、目の前に差し出された紙に何が書いてあるのか理解出来なかった。
 だが、次の瞬間その紙をむしり取ると覗き込む。
「……間違いない……間違いないけど、いったいどうしたって言うんだ?」
「家の父がようやく愛しの女性を射止めたのは知っているだろう? 今度は私の番だというだけだ」
 ふっと微笑んでそう言った。

 東宮春樹が『ヘルパー』を選んだ。
 しかも、それは『転入生』!

 その話題が校内を駆けめぐるのは春樹が『申請書』を橘に渡して十分も立たない事であった。

(……何で、こんなに目立ってるんだろう……)
 寮内を舎監の深山に案内されているだけなのに、詩桜は自分に絡みついてくる無数の視線を感じていた。
(そんなに転入生が珍しいのかな……)
 自分の容姿が人目を引くものだとは少しも自覚していない詩桜は取り敢えずそう言う事で納得する――まぁ、それも当然だろう。まだ自分の身に何が起こっているのか、詩桜は知らないのだから――
 それよりも何よりも詩桜が持っている『寮』に対する認識をことごとく壊してくれる設備に目を見張る方が忙しかった。
(……これって、本当に高校の『寮』なの……)
 ラウンジや食堂、図書館、娯楽室はおろかジムや室内プールまであるのだ。リゾートホテルといってくれた方がまだ理解出来たかもしれない。
(……きっと、ここから街まで降りて行くのが大変だからなんだよな……)
 そうだ。きっとそうに違いない……
 自分に言い聞かせる様に詩桜は何度も口の中で繰り返す。
 そんな詩桜の気持ちが判るのか――深山だって、はじめてここを案内されたときには同じような表情をしていたのだ――口元にやさしげな笑みを浮かべてこう告げた。
「さて、これで一通り寮内の案内は終わったな。後はおいおい誰かに聞いてくれ」
「はい」
「じゃ、後は君の部屋に案内するだけだな……」
 そう言うと、深山は施設のある棟から生徒達の居住区域の方へ足を踏み出しかける。だが、次の瞬間、そのまま固まってしまった。
「おや? 東宮に桂木、何かようか?」
 居住区との境に立つ二つの影を認めて、そう呼びかける。
(……東宮…って、まさか……)
 聞き慣れた名字に、詩桜もあわてて視線を移した。
(やっぱり……)
 そこについ先日、母の結婚式の時に紹介された相手を見つけて、詩桜は思わず後ずさりかける。そんな詩桜の態度に気づいているのかいないのか、春樹はふっと詩桜に微笑んで見せた。
「深山先生。申し訳ありませんが、佐久山君の部屋が急遽変更になりましたので……」
 春樹の隣に立つ人物――おそらく彼が『桂木』なのだろうと詩桜は判断した――は深山にこう言った。
「何でだ?」
「すみません。私が彼を『ヘルパー』に選んだので」
 深山の疑問に答えたのは春樹の方である。
(『ヘルパー』?????)
 深山の説明の中になかった単語に、詩桜は目を丸くした.
(単純に考えれば『お手伝いさん』何だろうけど……どうして僕が春樹さんのお手伝いさんになるんだァ????????)
 頭の中で疑問符がメリーゴーランドの様に回っている。
 だが、慣れているらしいほかの面々は詩桜を無視して話を進める事にした様だ。
「いきなり転入生を『ヘルパー』に選ぶとはいったいどうしたんだ、東宮?」
「あれ? 深山先生はご存じなかったのですか?」
「ん?」
「そこにいる詩桜君は私の義理の弟になるのですよ。先日私の父と彼の母君が再婚しましたので」
 微笑みを崩さないまま、春樹はさらりっと言う。
「あれ? そうだったか? 一通り彼の身上調書には目を通したんだが……確か保護者は君の父君ではなかったはずだが……」
「籍が入っておりませんので……でも、父からはきちんと面倒を見る様に言われておりますので」
「そう言う事か。判った。じゃぁ、後は東宮に任せよう」
 春樹の説明に納得したのか、深山は何度も頷いて見せる。そして、ようやくまだ事態が飲み込めていない詩桜を振り返った。
「と言う事らしいから、後の事は東宮にきちんと説明してもらうんだな。心配しなくても、こいつに任せておけば大丈夫だ」
 そういう問題じゃないんじゃないの?
 詩桜はそう言いかける。だが、深山は聞く耳をもっていなかった。
「きちんと面倒見てやれよ」
 春樹に向かってこう言い残すと、さっさとその場を離れていく。
「あ、あの……」
 その背を追いかける様に詩桜が伸ばした手は、脇から出てきた春樹の手に引き止められた。
「久しぶりだね、詩桜君」
 そのまま詩桜の手を口元に引き寄せると、騎士が姫君にする様に軽く口づける。
「さて、まずは私たちの部屋に案内しよう。君が一休みしてから質問に答えて上げるから」
 詩桜の身体を胸に抱き込む様に引き寄せながら春樹はそう囁いた。
「……お熱い事だねぇ……」
 くすくすと笑い声を漏らしながら桂木が茶々をいれる。
「いいだろう? 可愛いからって手を出すんじゃないぞ、桂木寮長?」
「出さないよ。俺にはちゃんと村瀬がいるからね」
「それはよかった」
 桂木と軽口を叩きながら春樹が歩き出した――当然、抱き込まれる様な形になった詩桜も……――
 その光景は、周囲の視線に見せつける様でもあった。

 机と本棚をのぞくとどう見ても、ホテルのツインルームにしか思えない……
 春樹に案内され――詩桜からすれば引きずられて――たどり着いた部屋の中に足を踏み入れた途端、詩桜が感じたのはそのイメージだった。なんせ、ここにはご丁寧にバスルームはおろかキチネットまであるのだ。
「取り敢えず、君の荷物は左側のロッカーにいれておいたよ。後で使いやすい様に入れ換えればいい」
 詩桜の手からバックを取り上げ、春樹はそのままソファーに座る様に促す。そして、自分もまたその隣に腰を下ろした。
「しかし、久しぶりだね。結婚式いらいだったかな?」
 ふわっとやさしげな微笑みを浮かべたままそう聞いてくる。
「そう……ですね……そのあと、僕も色々とドタバタしてましたし……」
「私はこちらに戻ってきてしまったからね」
 そう言いながら、さりげなく詩桜の肩に手を回してくる。
「でも、本当にここに来てくれるとは思わなかったよ。一週間前に父から連絡があったときは本当に嬉しかった」
 目を細めながら本当に嬉しそうに言う春樹を見て、詩桜は『本当は転入する気はなかったんです』と言い出しにくくなってしまった。
 仕方がないので、曖昧な微笑みを浮かべて見せる。そして、何かほかの話題を探した。
(そう言えば……)
 すぐに先程の疑問が浮き上がってくる。
「春樹さん、『ヘルパー』って何なんですか?」
 少し首を回して春樹の顔を視界に入れながらそう口にした。
「あぁ、そうか。詩桜君は知らなかったんだね。この学校独特の制度だから……」
 一人で納得すると、春樹はすぐに説明を始める。
 懇切丁寧に制度を説明してくれたので、詩桜もすぐにその制度を飲み込めた――しかし、春樹があえて裏の意味を飛ばした事には気づかない――
「つまり、僕は春樹さんのお世話をしなければならないって事ですか?」
「そう言うわけじゃないよ。ただ、こうしておけば間違いなく同室になれるからね。その方が父さんだけでなくお義母さんも安心するだろう?」
 詩桜が意識しない程度にその身体を自分の方に引き寄せながら春樹はそう言った。
(それに、こんなに可愛い詩桜君をほかの誰かに出し抜かれる可能性が減るしね)
 この部分は心の中だけで呟く。
 はっきりきっぱり、一目惚れだったのだ。
 義母になる女性とよく似た人形の様な容貌を持った彼が自分に向かって微笑んでくれたときから、誰にも渡したくないと思ってしまったくらいに。
 だから、春樹にとって詩桜がここに編入してきてくれた事は棚からぼた餅が落ちてきてくれたくらいありがたい事だったりする。
(それに、父さんも駄目だっては言わなかったしね)
 詩桜を『ヘルパー』にすると告げたときの父の反応からして――彼が浦の意味を知らないわけがない――反対はされていない様だった。
 むしろけしかけられたような気もしないではないが……
「でも、それが規則なのでしょう? 僕にできる事でしたらお手伝いしますね」
 清廉な表情で微笑んでいる春樹のそんな下心に気づくことなく、詩桜はそう言った――幸か不幸か、母の手伝いをさせられていた詩桜は一通りの家事はこなせるのだ――
「それは嬉しいね」
 自分の顔を見上げる様にしてそう言ってくる詩桜に、春樹は本当に嬉しそうな微笑みを投げかける。
「なら、私は君の勉強や学校生活がより良くなる様に手を貸して上げよう」
 自分の髪に春樹の指が絡められた事を詩桜は感じていた。
 しかし、彼の指が髪を梳いてくれる感触はとても心地よい。
(死んだお父さんに撫でられてるみたいだ……)
 そんな思いで詩桜はすっと瞳を閉じる。
「お願いします」
 睫毛に春樹の吐息がかかってくるのを感じながら詩桜はそう言った。
「努力しよう」
 言葉とともに柔らかい感触が額に触れる。
 そのキスの意味を、詩桜は親愛の表現だと取った――もちろん、春樹は似て非なる意味で口づけたのだ――
 二人の認識のズレを春樹はすぐに感じ取る。
(まぁ、おいおい教え込んでいけばいいか)
 それもまた楽しみの一つだよなァ……
 天使の様な微笑みの下で春樹はこう呟いていた。

(……やっぱり、注目されてる?)
 校舎内を案内してもらいながら、詩桜はそう感じていた。
 しかし、隣で丁寧に施設を説明してくれる春樹の手前、あんまりキョロキョロするわけにもいかないだろう。かすかに微笑みを浮かべながら春樹の言葉に頷いたところで、詩桜はある可能性に気づいた。
(春樹さんが一緒だからかなぁ……うん、きっとそうだ)
 確かに同性の目から見ても春樹はかっこいいと思う。
 女性的な柔らかいイメージの詩桜と違って春樹は『男性的』な魅力にあふれていた――それがまた詩桜のコンプレックスを刺激してくれるのだが――はっきり言って詩桜の理想そのものなのだ。
(可愛いじゃなくってカッコいいだもんなぁ……)
 だから仕方ないかも……
 と納得する。
「でね、ここが生徒会室。教室に居ないときは大概ここにいるから、何かあったらおいで」
 一際立派なドアを指さして春樹はそう言った。
「判りました」
 にっこりと微笑みを返す。
 その時である。
 いきなり二人の目の前で勢いよくドアが引き開けられた。
「えっ?」
 反射的に硬直してしまった詩桜を、春樹がとっさに腕の中に匿う。
 すると、今まで詩桜がいた場所に誰かが転がってきたのだ。
「お前らなぁ、これで済むとは思うなよ!!」
 床になついた身体を起こしながらその人物が叫ぶ。
「何をだね、新聞部副部長殿?」
 詩桜の視線を自分の胸で遮りながら、春樹は凍りつく様な声でそう問いただす。
「げぇっ! 東宮……」
「是非が是非とも、私にも説明してくれないか?」
 その顔には間違いなく微笑みが刻まれていた。しかし、詩桜らに向けるものとは違って『怖い』と思える笑みである。
「あ……あの……えっと……」
 なまじ整った容貌をしているだけあってその迫力は並ではない。
 かわいそうな新聞部副部長は自分の舌が何かに押さえつけられた様な気がしていた。
「……今日はここまでにしておいてやる!!!!!!!!!」
 結局、そう捨てぜりふを残しただけで――それだけでも立派だと思うが――彼はかけ去ってしまう。
「……まったく、何なんだ?」
 そう呟きながら、春樹は胸の中の詩桜を解放してくれた。
「春樹さん?」
「あぁ、気にしなくていいよ詩桜君。あいつが生徒会室に怒鳴り込んでくるのはいつもの事だから」
 安心させる様にポンポンと肩を叩いてやる。
「そうそう。アレが趣味みたいなものだからね」
 ドアの中から二人に向かって声が投げかけられた。
「東宮。折角だからそのかわい子ちゃんを僕等にも紹介してくれないか?」
「右近か……」
 声の主を確認して春樹は苦笑して見せる。
「初めまして。佐久山詩桜君だよね。僕は生徒会長の右近橘だよ。これからお茶にするからよっていかないかな?」
「あぁ、そうだな。ほかの面々も紹介しておかなければならないし……かまわないね、詩桜君?」
 一瞬躊躇したものの、自分の顔を覗き込んでくる春樹に詩桜ははっきりと頷いて見せる。春樹はそんな詩桜の背をやさしく押しながら生徒会室の中に誘っていった。
 パタン……
 音をたててしまったドアが詩桜の華奢な後ろ姿を覆い隠す。
 その詩桜を見つめている視線がある事に、さすがの春樹もきづいていなかった。

「かわええ子やないか……」
 ドアの反対側にある窓の外でそう呟く声がある。
「たいしたことないよ、あんなの……」
 その隣で、憎悪を隠さない声が上がった。
「はいはい……うちの女王様は基準が厳しいよって……」
 苦笑するようなあるいは駄々っ子をなだめる様な色彩がにじむ口調でそう言い返す。そして、その気配はそこから離れていった。

 転入して三日が経とうとしている。
 ようやく詩桜もこの学校のリズムを掴みかけていた。
「佐久山君、次は科学室だよ」
 それはこうして何かと声を掛けてくれる桂木の『ヘルパー』、村瀬のおかげとも言えるだろう。
「ありがとう、村瀬君」
 とんとんと机で教科書とノートをそろえながら詩桜は微笑み返す。
「気にしなくていいよ。桂木さんと東宮さんから頼まれているし……それに僕自身君の事が気に入っているから」
 ふわっとそよ風に揺れるスミレの花の様な笑みを村瀬は浮かべた――そう、『可憐』という形容詞は彼のためにあるのではないかとまで思わせる容貌の持ち主なのだ――
「良かった。僕も村瀬君がそばに居てくれると安心するんだ」
「なら、僕達仲良く出来るよね」
「そうだね」
 まるで女子高生の様な会話をかわしながら詩桜は立ち上がる。そして村瀬と一緒に科学室に向かおうとした。
 と
「うわっ!」
 詩桜が大きくバランスを崩す。
「危ない」
 とっさに村瀬が支えようと腕を差し出すが、似た様な体格の詩桜を支えきれるはずもなく一緒に倒れてしまった。
「ひゅーひゅー!」
「いいねぇ、美少年同士のからみっていうのは」
「ほんと、ほんと。目の保養じゃン」
 嘲りを含んだ笑いとともにそういう声が二人の上に降ってくる。
 視線を向けると『成績はともかく性格は最低!!!』という面々が二人を囲んで立っていた。
「あなた方が彼をつまずかせたからでしょう」
 詩桜の上からどきながら村瀬がきつい視線を投げかける――その表情さえ『可憐』に見えてしまうのはいいのか悪いのか……――
「おやぁ、前を見ていなかったのは佐久山君の方だろう?」
「仕方ないジャん。彼は後ろの方が気になるんだから」
「そうそう。気をつけてないとねー」
「確かに。佐久山なら俺もお願いしたいよ」
 げびた言葉が次々に連中の口から飛び出してくる。
「いいよ、放っておこう」
 これ以上連中の言葉を聞いていたくなくて、詩桜は村瀬の腕に手を掛けた。
「そうだね。これ以上彼らと付き合っているとこっちまで下品になりそうだ」
 村瀬も同意する。
 そして、彼らに視線を戻す事もなく二人は科学室へ向かった。

「……こういう…事が…あったんです……」
 頬を染めながら――と言うのも、桂木の指がシャツの下にもぐり込んでいたからだ――村瀬が春樹に報告をする。
「あぁ、あの連中か……」
 頷いているのは春樹ではなく橘だった。
「この子にもちょっかい出してきたらしいからね」
 そう言いながら、自分の両足の間にうずくまっている少年の髪をいとおしげに撫でる。
「もてない連中のひがみだろう」
 軽く目を細め名がらさらに言葉を続けた。
「そうかな……」
 目の前の光景を平然と眺めながら春樹は言葉を舌に乗せる。
「何かもっと裏がありそうだが」
「……何でだ?」
 春樹が何を懸念しているのかを察した桂木か問いかけた。
「考えても見るんだな。普通、我々の『ヘルパー』にちょっかいを掛けようとするものがいるか? そうならない様に先輩方が学園の意識を統制してきたはず……」
「言われてみればそうだな」
「……我々の関知していないところで何かが動いているのかもしれない……」
「確かめてみる価値はあるか」
 学園の表のトップ三人はその方向で同意する。
 その表情は『ヘルパー』の二人の表情とはかけ離れたものであった。
「そちらの方は我々が引き受けよう。東宮は早くここに詩桜君を連れて来れる様に努力するんだな」
「そうそう。茅野も友達になりたいって言っているし……」
 くすくすと笑みを漏らされながら二人にそう言われて、春樹は一瞬ひるんでしまった。
「……あの子はおくてだから……これからゆっくりと教育して行こうと思っている」
「それはそれで楽しそうだな」
 そのあとも、彼らの話し合いは遅くまで続いたのだった。

『遅くなるから、眠くなったらかまわずに寝ていなさい』
 春樹にこう言い残されていたのだが、詩桜は戻ってくるのを待っていようと思っていた。
(だって、真っ暗なところに帰ってくるのって嫌だろう……)
 母親が再婚するまでの間鍵っ子だった詩桜が一番嫌だったのがそれだったのだ。
 暗い部屋の明りを自分でつけるとき『自分は一人なんだ……』と認識させられる。その心細さはいくつになっても忘れられるものではないだろう。
 だから、
「いくら寮内だって、起きていてあげたほうがいいよね……」
 自分に確認するようにそう呟いていた。
 しかし、転入したばかりでまだ精神を緊張させたままの詩桜は、自分でも思っていなかった以上に疲労していたらしい。
 ゆっくりと瞼が落ちてくる。
「やばいっ……」
 ウトウトと舟をこぎかけてあわてて瞼を引き上げる。
 だが、またすぐに上瞼と下瞼が仲良くなろうとした。
 それに気づいて瞼を開ける。
 必死に睡魔と格闘するものの、次第に瞼がくっついている時間が長くなっていく。
 そして、いつしか明りを煌々とつけたまま、詩桜はコロンとベッドの上に横たわり寝息を立てていた。

(あれ?)
 何故か肌寒い。
(あぁ、あのまま寝ちゃったんだ……)
 このままだと風邪をひいちゃうかなあ……ぼんやりとそんな事を考えた。
 しかし、身体が動かない。
 意識だけが何かの拍子で呼び戻されてしまったようだ。
(……んっ……)
 その理由が何なのかすぐにわかった。
 全身が肌寒いのは事実なのだが、その中でも特に下半身がすーすーしている――丁度、濡れた肌が乾いていく過程で体温が奪われているかのように――
 その中でただ一カ所、ほかの部分の熱を全て集めたかのように熱くなっているところがあった。
(な……んで……)
 いったいどうしてそこに熱が集まってしまったというのか……
 しかも、この感覚からしてかなり状況が切羽詰まっている。
(……そんなに溜まってたっけ……)
 確かにここしばらく自分でもしていなかった――まさか春樹が隣で寝ているところでするわけにはいかないし……――何処ですればいいのか見つけられないという理由もあった。
 しかし、健全な身体を持っているわりには詩桜はそっちの方面では淡白な方である。
 実家にいた時だって週に一遍するかしないかだった。
(だから、まだ大丈夫なはずなのに……)
 そう思う。
 だが、現実に今自分の中心でそこが頭をもたげている。
(どうしよう……)
 それなのに、自分で慰めようにも手はどこかにくくりつけられているかのように重いのだ。
(えっ?)
 その時だった。
 何か湿っていて柔らかくて温かいものがそこに絡みついてくる。
「あっ……」
 つつっと下から上に向かって『それ』が敏感な肌をかすめた。
 それだけでふるっと詩桜の分身は震える。
 敏感な先端を、何かが割り開くようにつついてきた。
「ンンっ……やぁ……」
 次第に射精感が沸き上がってくる。
 だが、まだこれだけでは達する事ができない。
「…も……とぉ……」
 ねだるように腰が蠢きはじめる。
 くすっ……
 達する事を望む事が全てになった詩桜の耳に誰かの笑い声がかすかに届いた。
 だが、それが誰の笑い声なのか判断するだけの思考力は詩桜にはない。
 いや、一応判断しようとしたのだ。
 だが、その瞬間括れの部分を何かできつくすり上げられる。
「あぁぁぁぁぁっ!」
 甘い悲鳴共に、詩桜は快楽をそこから吹き出した。
 そして次に襲ってくるのは気だるい解放感。
 その感覚に釣られるようにまた睡魔が襲いかかってきた。
「はぁっ……」
 睡魔に抗うように、詩桜は大きく息を吐く。
 そんな詩桜の髪に誰かがやさしく触れてきた。
「いいよ……おやすみ……」
 間違いなくどこかで聞いた事がある声……
 あやすようなその口調に詩桜は素直に意識を解放したのだった。

(……あれって、春樹さんの声だった…?……)
 寝入る直前に聞いた声の主をようやく思い当たる……
 その瞬間、詩桜の意識は急速に覚醒へと向かった。
「……本当だったら……やばいよ……」
 呟くと同時に詩桜は飛び起きる。
「あれ?」
 ところが布団はかけられていたものの、詩桜が今身につけている服は――コッソリとズボンの中も覗き込んだが――夕べのものだった。脱がされた気配も着替えさせられた気配もない。
「……ゆ…め……だったの? あれって……」
 下半身に残っているあの射精の時の感触を思い出しながら、詩桜は頬を染めた。
 それはそれで問題があるように思えたのだ。
(だって……つまりは僕が春樹さんをそう言う事に使っちゃったって事でしょう……)
 いくら夢の中で意識してやった事ではないと言え、そう言う事に使われたと知ったら春樹が嫌がるだろう……
 下手をすると、せっかく仲良く出来ているのに愛想を尽かされてしまう可能性すらもあった。
「……まずいよ……」
 布団を握りしめながら、春樹はそう呟く。
 その時だった。
「何がまずいのかな?」
 部屋の奥の方から春樹の声が響いてくる。
 あわてて詩桜が視線を向けた。と、どうやらシャワーを浴びてきたばかりらしい春樹が上半身をさらしながら歩いてくる。
「ベッドの上でうたた寝をしていた事かな? だったら確かにまずいよね。いくら温かくなってきたとはいえ、夜はまだ冷えるよ。君に風邪を引かせたなんて父さんにばれたら、私が怒られる」
 ポタポタと水滴が滴っている髪の毛を少し乱暴にタオルでぬぐいながら春樹が言った――しかし、その声は叱るというよりたしなめるというと言ったニュアンスの方が強かった――
 その時初めて詩桜はある事に気づく。
「あの……」
「何だい?」
「ひょっとして……夕べ布団をかけて下さったのは……」
「あぁ、そんな事か」
 恐る恐る口にした詩桜に、春樹はやさしげな微笑みを向けた。
「あんまり気持ち良さそうに寝ていたから、起こすのが申し訳なくてね……でも、もう少し肉をつけてもいいかな、君の場合」
「春樹さん!」
 最後の一言に詩桜は思いっきり反応してしまう。
 いくら食べても太れない体質――ダイエットに励む女性にはうらやましい限りだ――と言うのは、詩桜にはコンプレックスになっているのだ。
(もう少し筋肉が欲しい)
 と思って運動しても筋肉にはならないらしい――もっとも、この顔で男らしい体格ではちょっと嫌かもしれない――
「まぁ、そんなに気にしなくてもいいかな? 今ぐらいだと抱き上げるのには丁度いいし」
 詩桜が振り上げた枕をよけるように立ち上がりながら、春樹は朗らかに笑った。
「僕は男です!」
「判ってはいるんだけどね」
 真っ赤になって宣言する詩桜が可愛くてたまらないという表情を春樹は崩さない。
 それが悔しくて、詩桜は手にしていた枕をぶつけてやろうかとまで思ってしまった。
 じりりりりりりりっ
 そんな二人のじゃれあいに終止符を告げるかのように、詩桜の枕元に置かれた目覚ましがささやかな自己主張を開始する。
「あぁ、そろそろ食堂に行かないと遅刻するね」
 穏やかに告げる春樹の言葉を合図にして、二人はあわてて身支度を整えた。

 食堂は朝食を取りたい学生達でごった返していた。
 その人込みをかき分けて、詩桜は二人分の朝食を取りにカウンターへと向かう。
(……こんなところでも特別扱いなんだもんなぁ……)
 一般生徒と献立は同じなのだが、受け取る窓口が違うのだ。まぁ、二人分を一つのお盆に乗せているという理由もあるのだろう。
「しかし、何度見ても豪勢なメニュー」
 お盆の上に並べられたお皿を眺めながら、詩桜は小さく呟いた。
「まぁ、それが最大の楽しみなんだから仕方ないんじゃないのかな?」
 一体いつのまに隣に来ていたのか、村瀬がそう答える。
「そうそう。こう言うところに閉じ込められちゃってるからねー。食べる事ぐらい豪勢でないとやってられないって思う人たちも多いだろうしね」
 村瀬の隣でくすくすと笑っているのはいったい誰だったろう……
(どこかであったとは思うんだけど……)
 詩桜はすぐに思い出せなくて小首をかしげた。
 その仕種でピンときたのだろう、すかさず村瀬がフォローをいれてくれる。
「生徒会長の右近さんの『ヘルパー』の茅野君だよ。B組の」
 言われてみて、詩桜はすぐに何処で会ったのかを思い出した。
「あぁ、それであった事があると思ったんだ」
 詩桜達のA組と彼のB組と、選択科目の関係で一緒になる事があるのだ。
「音楽で一緒なんだっけ?」
「そうそう。覚えていてもらって光栄だね」
「そんなぁ……茅野…君みたいに人目を引く人なら誰の記憶にも残ると思うよ」
 にっこりと微笑みながら自然に詩桜の隣に来た茅野に笑みを返しながらそう言う。
 どうやら、春樹は桂木達と一つのテーブルを占拠してしまったらしい。
 三人はそのまま会話を続けながら彼らの待つテーブルに向かって歩き出した。
「そういう君だって、みんなから注目を浴びているって知っているの?」
 確かに、周囲からの視線は感じている。しかし、それらは皆茅野と村瀬の二人に向けられたものだと詩桜は思っていた。
「僕はそんなことないって」
 本気でこう言う詩桜に、二人は思わず苦笑して見せる。
「そうでもないと思うけど?」
「そうそう。十分魅力的だと思うよ。東宮さんの隣にいても見劣りしないもん」
「嘘だよ。僕なんてただの女顔だもん。新しいのがいるから珍しいだけでしょう?」
 唇をとんがらせてそう言う詩桜に、二人は一瞬困ったという表情を作った。
(……確かに、東宮先輩の仰るとおりだ……)
(まさかここまで自分の魅力を認識していないとは……)
 これなら、春樹がああも過保護なまでに心配する事も納得出来る。
 だが、二人はすぐにもとのにこやかな表情を取り戻した。
「それより、向こうでおなかがすいた方々が待ち遠しそうにしているよ」
 詩桜が二人の変化に気づく前に、村瀬がこう言う。
「そうだね。あの方々もこう言う時だけはほかのみんなと一緒だから」
 村瀬の言葉に茅野もすぐに同意する。
「……何か、イメージにあわない……」
 ぼそりっと呟いた詩桜の言葉に、二人は思わず吹き出してしまったようだ。
「ずいぶんと楽しそうだね」
 詩桜の言葉が届いたとは思えないが、春樹が手招きをしながらそう言う――その表情はとてもやさしい――
「えぇ」
 そんな春樹の前にお盆を置きながら詩桜は肯定して見せた。
「どんな事を話してたのかな?」
 橘が茅野にそう声を掛ける。
 思わず三人は顔を見合わせてしまった。
 そして一斉に口を開く。
「それは内緒です」
 と。
「何だつまらん」
「いいんじゃないのか? 少しぐらい秘密があった方が」
 むくれた橘に桂木がそう声を掛けた。
「そうだな。取り敢えず三人が仲良くなっただけでもいいだろう……それよりも早く食べないとまずいんじゃないのか、右近?」
「そうだった……教頭のところに決裁印をもらいにいかなければならなかったんだな」
 あわててお茶碗に手を伸ばす橘に、茅野がさりげなく手渡している。
(……何か、新婚さんみたい……)
 漠然とそんな事を考えながら、詩桜も春樹のために食器を並べてやった。
 後は、ひたすらそれぞれの皿に箸を伸ばすだけである。
 それでも、和気あいあいとした空気が流れていて、詩桜はホッとしたような気分も味わっていた。

 古語辞典を取り出すため何気なく自分のロッカーを開けた詩桜は、中の様子に思わず目をまるくしてしまった。
「…これ……何なの……」
 昨日、寮に帰るまではきちんとなっていたはずの辞書類がぐちゃくちゃに――中には破られているものもある――されていた。
 その位ぐらいなら別にここまでは驚かない。
 『子供』と言うものは残酷なもので、自分達と少しでも違う面のある子供は例え同級生でも排斥しようとするのだ。『片親』と言うのはその条件に十分当てはまっていたわけで、詩桜もいじめられた経験が一度や二度ではない。もちろん、このくらいぐらいの事なら既に経験済だった。
 では、いったい何に驚いたのか……
「へぇ……すごいジャン」
「やっぱりこう言う事をしていたのか……」
「だよなぁ……でなけりゃ、このちんくしゃがあの『東宮の君』の『ヘルパー』に何かなれるわけないだろう?」
 いつのまに集まってきたのか、詩桜の後ろから『それ』を覗き込んでこうはやし立てる連中がいた。
 だが、この連中の声すらも今の詩桜の耳には入っていないらしい。
(……これって……合成だよなァ……暇な奴……)
 ロッカーの扉の裏に張られた『それ』――男同士が裸で絡み合っている写真。しかもご丁寧にもその二人の顔の部分は詩桜と春樹のものに代えられている――に視線を向けたまま、詩桜は心の中でそう吐き捨てるように呟いた。
 そして、そのわだかまりのまま手を伸ばしてその『写真』をはぎ取ると両手でクシャクシャに丸める。
「教室に入りたいんだ。退いてくれないか?」
 くるんと振りかえると、詩桜は周囲を取り巻いている面々に冷たく言い放った。まるで、『お前達の相手なんかしている暇はない』と吐き捨てるかのようなその口調に……
 その詩桜の迫力に気押されたのか、周囲の人垣が左右に別れた。
 当然といった表情で詩桜はその空間をすり抜けていく。
(……古語辞典がないと困るんだけど……貸してくれそうな人、いないだろうしなぁ)
 さっさと不快な事は頭の中からデリートしてやるとばかりに詩桜は思考の方向をを無理やり変えた。
「大変だったね」
 そんな詩桜を、村瀬が困ったような笑みを浮かべて出迎える。
「ほら。取り敢えず茅野君から借りてきたよ」
 彼が詩桜の前に差し出したのは、綺麗にカバーがかけられた古語辞典だった。
「ありがとう……助かる……」
 ホッとしたように、詩桜はそれを受け取る。
「誰に借りに行けばいいのか考えてたところだった」
 そう言いながら、詩桜は自分の席に腰を下ろした。
「そう? いざとなったら東宮先輩に借りに行けばいいじゃン」
「だけど、そうすると火に油を注ぐようなものかなぁと思って」
 おそらく、自分が春樹の『ヘルパー』に選ばれた事が気に入らない人の仕業だろうと詩桜は当たりをつけていたのだ。
「……そうかも……やっかみって言うのは怖いものだからね」
 どうやら似たような経験を持っているらしい村瀬も頷いて見せる。
「でも、僕は佐久山君が一番東宮先輩にお似合いだと思うよ」
「そうかなぁ……春樹さんって何か『雲の上の人』ってイメージだもの」
「確かに……」
「桂木先輩や右近先輩もどこか『高嶺の花』ってイメージあるけどね」
 机の中から古典の教科書やらノートやらを取り出しながら、詩桜は付け加えた。
「いいんだよ。無理しなくても」
「本当にそう思っているんだけどね」
 村瀬の言葉にそう言い返す。
 その時、丁度授業始まりのチャイムがなった。
 最後の音の余韻がまだ消えないうちに古典の教師が入室してくる。
「きりーっつ」
 委員長のどこか間延びした掛け声とともに全員が立ち上がった。
 こればかりがどこの学校でも同じ、授業開始の光景である。
「さて……」
 古典教師はとんとんと教卓で何やら意味ありげにプリントをそろえながら口を開いた。
「一昨日の実力テストを変えさせてもらおう。しかし何だ。君らは一体どういうつもりで私の授業を聞いていたのか……嘆きたくなる平均点だったよ……しかも、最高点が転入生とはねぇ……」
 最後の一言に、教室内がどよめく。
 その中で一人、面白く無さそうに舌打ちをするものがいた事に誰も気づかなかった。

「すごいね。あの先生の問題ってひねくれているので有名なんだけどねぇ」
 休み時間になった途端、詩桜はクラスメートに囲まれていた。誰もが1時間前とは違った瞳で詩桜の事を眺めている。
「……そ、そうなの…?……」
 今までとは打って変わった視線をどう受け止めればいいのか判らずに詩桜は目を白黒させながら、辛うじてそう言った。
「そうそう。毎年あの先生に受け持たれたクラスは古典で泣くって言うジンクスまであるんだよ」
 うっとりしたように詩桜を見つめている者までいる。
「さすがは東宮先輩の『ヘルパー』になれるだけはあるね」
 抱きつかんばかりにして後ろの席の生徒がこう言った。
(……春樹さんの足を引っ張らなくて済んだのは嬉しいんだけど……)
 さて、なんと言い返せばいいのだろう……
 詩桜は完全に口ごもってしまった。
「……だから、前に問題を教えられていたんじゃないか?」
 その熱狂的な空気に水をかけるような声が、教室の奥から投げつけられる。
「どういう事?」
「だから、東宮先輩ならその位ぐらいの情報を先生方からもらうくらいできるだろう?」
 冷たい視線で詩桜を睨み付けながらそう言いきったのは、いかにも『日本男児』といった容貌の生徒だった。
「……聞き捨てならないね、天野……」
 反論しようと詩桜が口を開くよりも先にそう言ったのは村瀬だった。
「まるで、東宮先輩が不正な行為をしているようじゃないの?」
 今まで聞いた事がない彼の冷たい声色に、詩桜の方が驚きの表情を浮かべる。
 しかし、他のクラスメート達は意外なほど平然とその光景を受け止めていた。
「これは失礼。だけど、そこの転入生が無理やり頼み込んだって言う可能性もあるだろう?」
「それこそお笑い種だろう? 非常勤のあの先生が学校に来たのは、佐久山君が転入してきてから昨日が初めてじゃない。いつ東宮先輩が聞き出せたって言うの?」
 村瀬がこういった途端、天野と呼ばれた生徒も『あっ』と言う表情を作る。
 どうやら彼はその事実を失念していたらしいのだ。
 その天野に止めを刺すように村瀬がなおもこう言葉を続ける。
「自分が選ばれなかったからって佐久山君に嫉妬するのはみっともないよ。あぁ、そんなだから東宮先輩に選ばれなかったのか……」
 そこまで村瀬に言われるのを見てさすがに詩桜も天野がかわいそうになってきた。
「村瀬君……」
 彼の注意を引こうと名前を呼ぶ。
「だって、悔しくないの? 佐久山君……」
「別に……村瀬君が信じてくれているからいいよ。君にまで疑われたらさすがにくるだろうけどね……」
 そう言いながら、詩桜はふわっと微笑んで見せた。
「それに、あのテストはたまたま前の学校で山を掛けたところがでたからできただけだもの……」
 丁度、転入する直前が実力テストだったし……
 詩桜はそう続けた。
「……あれ? 佐久山君って何処の高校から転入してきたんだっけ……」
「明興大付属……」
 言ってなかったっけ? と小首をかしげながら詩桜が素直に答える。
「げげっ! T大合格者続出の……」
「なら、あのくらいぐらいぶっつけ本番でもわけないって?」
「あそこならあり得る……」
 先程までとは別の意味でのざわめきが詩桜の周囲で沸き上がった。

 その光景を、さらに冷めた瞳で眺めているものがいる。
「……天野もふがいない……」
 ぼそっと、その内の一人が呟いた。
「仕方ないやん。リサーチ不足って奴やろ?」
「しかし、やっぱりあいつ、計画の上で思いっきり障害になりそうだな」
「そう? 俺は気に入ったけど?」
「ふぅん……あの人にそう言うぞ?」
「かまへんよ。そないな事ぐらいで迫害されるような俺やないもん」
 くすくすと低い声で笑うそいつらに注意を向けるものは、教室内には誰もいなかった。

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