あの日、自分で目を閉じてしまったから、周囲の様子は確認できない。それでも、音はしっかりと認識できる。
それから、ここが総督府にある自分の部屋ではない、とナナリーはそう判断をした。そういえば、誰かが部屋に入ってきたことは覚えている。その後の記憶がない、と言うことは、きっと、薬で意識を奪われたのだろう。
「どなたか、いらっしゃいますの?」
自分のものではない呼吸音を耳にして、ナナリーはこう問いかけた。しかし、それに対する答えはない。
ならば、眠っているのだろうか。
そんなことを考えながら、ゆっくりと体を起こす。どうやら、ここに自分を連れてきた人間は、自分を虐待する気はないらしい。自分が寝かされていたのが柔らかなベットだと知って、ナナリーは少しだけ安堵のため息を漏らす。
「ここは、どこなのでしょうか」
目は見えないものの、ついつい昔の癖で周囲を見回すように顔を動かす。そうすれば、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる足音を聞き取ることができた。
「聞けば、教えて頂けるのかしら」
こう呟きながら首をかしげたときだ。
不意に何かがナナリーの髪に触れてくる。それが誰かの指だとわかったのは、それがナナリーの頬に移動してきたからだ。
その指の感触に何故か、懐かしいものを感じてしまう。
幼い頃にはいつも身近にあったそれ。それを与えてくれたのはいったい誰だったろうか。
「お母様? それとも……ルルーシュお姉様?」
コーネリアやユーフェミアの指もやさしい。だが、彼女たちのそれと母や姉が与えてくれたそれとは微妙に違うのだ。それはどうしてなのだろう。そう思ったことも事実ではある。
やはり言葉は返ってこない。
それでも、触れてくる指先が、さらにやさしい刺激を与えてくれる。
「ナナリーはコーネリアお姉様やユーフェミアお姉様がお側にいてくださったから、寂しいとは思いませんでした。でも、やはりお母様とお姉様と一緒にいたかったです」
決して口に出してはいけないと思っていた言葉。
それでも、このやさしい指の持ち主にならば告げてもいいのではないか。そう考えてしまった。
あるいは、この指の持ち主が、何も口にしないから……かもしれない。
「もう少しだけ、甘えさせてくださいませ」
せめて、今だけでも自分の愚かな希望を叶えて欲しい……とナナリーはそう告げる。
「……お母様、お姉様……」
そのまま、彼女は夢の中へと戻っていった。
靴音を響かせて、ゼロは通路を歩いていく。
窓越しに背の高い木々が幾重にも連なっているのが見えた。
ここは、かつて日本と呼ばれていた頃、ある企業の社長が作らせた別荘だという。もっとも、それにしてはいささかセキュリティが厳重だが……とゼロは仮面の下で小さな笑いを漏らした。だが、そのおかげでこちらは助かっているのだからいいのかもしれない。
そのままあるドアの前で足を止める。
「私だ」
中にいる人物へ向かってこう呼びかけた。もちろん、返事がないであろう事は最初から覚悟している。ただ、ドアを開けるのが自分だとわかってもらえればいい。そう思っての行動だった。
だから、ためらうことなくドアを開ける。
次の瞬間、視界に飛び込んできた光景にゼロは息をのむ。
「これは……驚いたな」
まさか、彼女が自分自身から動くとは思わなかった。
それなのに、彼女は今、ナナリーの髪をあきることなくなで続けている。
「その方が、気に入ったのかな?」
ひょっとしたら、自分にも何か反応を見せてくれるのではないか。そう考えて、ゼロはゆっくりと彼女に声をかける。だが、彼女は視線すらも上げてはくれない。
「……それとも、その方が《ナナリー・ヴィ・ブリタニア》皇女殿下、だからなのか?」
その可能性はあるな、とそう心の中で呟く。
「ならば……彼にも反応を見せてくれるかもしれないね」
それとも、違うのだろうか。
目の前の眠れる少女だけが特別なのかもしれない。彼女は、ルルーシュだけではなくあのコーネリアやユーフェミアをはじめとしたブリタニア皇族が汚いものを見せないように、近づけないようにして育ててきた掌中の珠なのだから。
それでも、ただ一度、その存在が危険にさらされた。
「……ブリタニア皇族は、誰もが心の中に闇を持っている。それを解放するかしないかの違いだけだろうしな」
もちろん、彼等にも良心というものはある。その象徴がナナリーなのかもしれない。それならば、闇の象徴は誰なのだろうか。
「あぁ……いたな、一人」
くすり、と笑いを漏らす。
「あの女なら、十分に資格があるか」
既にこの世の存在ではないというのに、今でもその毒はブリタニアだけではなく世界へと広がっている。そして、それを止められる存在も、やはり既にこの世の人間ではない。
「もっとも、私には関係がないか」
小さな笑いとともにゼロははき出す。
「そして、お前にもな」
言葉とともにゼロはベッドへと歩み寄る。そして、ナナリーをやさしくなで続けている少女の髪の毛をそっと指先に取った。そのまま、漆黒とも言えるそれにそっと口づけるような仕草をする。
「お前はそのままでいればいい」
そして、こう囁く。
その瞬間だ。
不意に何かがゼロの仮面に触れてくる。それが何であるのかわかっているのに、ゼロはすぐに認識ができなかった。
「……お前……」
ナナリーの存在に何かを刺激されたのか。
それとも……と心の中で呟く。
「ひょっとしたら……お前と皇女殿下を会わせるべきではなかったのかもしれないな」
彼女の中で何かが生まれようとしている。しかし、それがよいものなのかどうかはわからない。
それでも……とゼロは思う。
「どうなろうと、お前の美しさは変わらないだろうな」
言葉とともに、そっと彼女の手を手袋で包まれたままの指で包んだ。
「お前が光の中に出て行ける世界。それを作ってやろう」
そのために、誰を苦しめようともかまわない。ゼロは新たな決意を口にする。
まるでそのタイミングを待っていたかのように、彼の腰で携帯が着信を告げた。彼女の手を包み込んだ手はそのままに、反対側の手でそれを取り上げる。
「私だ」
どうかしたのか? と彼女に対するものとはうってかわって冷酷とも言える声で問いかけた。
『ゼロ……彼です』
姿を確認しました……とカレンが告げてくる。
『どうしますか?』
さらに、次の指示を待つように言葉を重ねた。
「そのまま通せ」
許可を出すまで、誰も手を出すな……とさらに彼は続ける。
『ゼロ』
「私が直接話しをする。誰も邪魔することは許さない」
これは自分たちの問題だ。そう付け加えることを辛うじて抑える。
「おそらく、コーネリアが軍を出してくるはずだ。そちらの対処は、お前達に任せる」
ただし、無理はするな……と付け加えれば、回線の向こうでカレンが頷いたのがわかった。そのまま、ゼロは通話を終わらせる。
「さて……今度こそ、貴方を手に入れますよ。ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア殿下」
その時こそ、自分の宿願に向けて、大きな一歩を踏み出すときだ。そう付け加えると、彼は低い笑いを漏らした。
「ロイド・アスプルンド!」
言葉とともに、コーネリアは特派のトレーラーへと足を踏み入れた。しかし、その場には目的の人物はいない。
「……クルルギ准尉」
代わりに、彼女はルルーシュのことを一番よく知っているであろう人物へと矛先を替えた。というよりも、元々そのつもりだったと言っていい。
「はい」
ルルーシュを信頼しているのか。それとも、全ての感情を押し殺しているのかわからない静かな口調でスザクは言葉を返してくる。
「ルルーシュ・ランペルージがゼロに呼び出された、というのは事実なのだな?」
単刀直入に問いかければ、彼は静かに頷いて見せた。
「何故、それを私に伝えなかった?」
「……もし、ルルーシュが一人であの場に行かなければ……人質の命はないと、そう書かれてあったからです」
それだからこそ、ルルーシュはロイドにガウェインを借りにきたのだ。でなければ、もっと他の方法をとっていただろう。
「その人質が誰か、お前は知っているか?」
さらに、コーネリアは問いかけの言葉を投げつけた。
「そこまでは……僕は知らされておりません」
嘘だな、と彼の口調から判断をする。だが、それを告げていいのかどうかわからない……と思っているのか。父である皇帝からの命令を考えれば、そうなのだろう。
「……人質は、ナナリーだな?」
確認するように問いかければスザクは唇を噛む。その仕草がコーネリアの疑念を確証へと替えた。
「……ルルーシュ・ランペルージは……ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア。私の異母妹、だな?」
さらに問いかけの言葉を口にする。だからこそ、ナナリーを人質にして、彼を呼び出したのだろう、とそう続けた。
その瞬間、息をのむものがいる。
だが、スザクの表情は変わらない。
「それに関しては、お答えできません」
そして、きっぱりとした口調でこう言い切った。
「クルルギ准尉!」
「僕のことでしたら、いくらでもお答えします。しかし、今総督閣下が問いかけられたのは、僕の秘密ではありません」
ルルーシュが答えてもかまわないと考えたのであれば、きっと答えてくれるだろう。しかし、そうでなければ自分の口からは言うことができない。
「私の命令でも、か?」
「……僕にとって《主》と言えるのは、ルルーシュだけです」
そして、それはルルーシュが一番隠しておきたいと思っていることだ。だから、許可がなければ、絶対に口にすることはできない。そう告げる彼の瞳には真摯な光りが浮かんでいる。
それと同じ光りを、コーネリアは何度も目にしていた。
自分の騎士をはじめとしたものが、忠誠を捧げた相手からの命令に命をかけて遂行しようとしているときのそれだ。
「そうか」
これ以上、無理強いをすればスザクはルルーシュの秘密を守るために命を絶ちかねない。そんなことになれば、あの少年がどれだけ悲しむか。そして、自分が考えているような存在であれば、ようやくふさがった傷を自分がえぐることになってしまう。
それだけはしてはいけない。
ルルーシュも、自分にとっては大切な異母妹――いや、異母弟と言うべきか――なのだ。その存在を傷つけることは自分の矜持が許さない。
「では、本人を無事に取り戻してから問いかけよう。それで、現在、彼はどこに?」
状況はわかっているのか? と代わりにこう問いかける。
「総督閣下。これをおつけくださいませ」
脇からセシルがヘッドセットを差し出してきた。
「ルルーシュ君には、小型のものを身につけて頂いています。少なくとも、会話だけはこれで拾うことが可能です」
そして、ランスロットはいつでも発進が可能だ……とセシルは付け加える。
「ロイドが密かにルルーシュ君に同行しております。ですから、彼から連絡があり次第、ガウェインでルルーシュ君と人質の確保を行うことになっております」
同時に、ランスロットがその場に急襲をかける手はずになっている、と彼女は続けた。
「……好きにするがいい。このたびのことは、ルルーシュ・ランペルージの好きにさせろと、皇帝陛下からの勅命があったからな」
一体どこから話が回ったのか……と呟きながら、コーネリアはさりげなくスザクの顔を見つめる。そうすれば、彼がほっとしたようにため息をついたのがわかった。
「我々も、出撃できるよう準備をしておく。話は……無事にルルーシュ・ランペルージと人質の二人を取り戻してからだ」
その時こそ、真実を聞かせて貰おう。そう付け加える。
「ルルーシュが、それを望みましたら、ご随意に」
あくまでも自分が従うのはルルーシュの指示だけだ、と言外に告げるスザクに、コーネリアは少しだけ表情を和らげた。
「お前のような存在が側にいてくれたからこそ、あの子は心の傷を癒すことができたのかもしれないな」
だから、微笑むことができるようになったのだろう。そう付け加えた言葉に、スザクはただ静かに目を伏せた。
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07.03.12 up
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