ルルーシュは一瞬考えた後で手にしていたチェスの駒をボードの上に戻した。
「流石に、これは持って行けないな……」
 持っていったところで、相手をしてくれるものはいないだろう。それに、これを見ていると彼女たちのことを思い出してしまうから。そう考えながら、そうっと胸を押さえる。
「これと……後は、あれぐらいなら持っていっても構わないかな」
 窓際に置かれた小さな地球儀。これは、今年の誕生日の時に、この離宮に勤めている者達がお金を出し合って贈ってくれたものだ。まだ幼い自分の掌ほどの大きさのこれであれば、ポケットの中に入れていっても構わないだろう。
 他にも持っていきたいものはたくさんある。だが、それらが無事にあちらに届くとは限らない。いや、その多くが途中で処分されてしまうことはルルーシュにも想像が付いた。
「……これも、見つけられたら取り上げられるかもしれない……」
 それでも、これは幸せだった頃の記憶とつながっているものだから……とルルーシュは呟く。
 今は遠くなってしまったそれを忍ぶよすがが欲しい。
 だから、と心の中で自分に言い聞かせながら、そうっと地球儀を取り上げた。そして、ハンカチで丁寧に包む。
 そのまま、それを手にしていた小ぶりのバッグの中にしまった。
「ルルーシュ殿下」
 そっと彼女の背中に声をかけてくるものがいる。
「……もう、時間か?」
 その相手に向けて、ルルーシュは問いかけた。
「申し訳ありません」
 振り向けば、見覚えがある兵士が申し訳なさそうにこう言ってくる。
「お前のせいではないだろう、ジェレミア」
 誰のせいでもない、とルルーシュは微笑みを作った。それが不自然に見えていなければいいのだが。皇族としてそれなりの学習を積んできたが、それでも今は笑うことができないような気がするのだ。
「……殿下、申し訳ありません……」
 自分たちがお二人を守れなかったばかりに……と彼はさらに顔をゆがめた。
「それもしかたがないことだ……」
 父に言わせれば、弱かった自分たちが悪い、と言うところだろう。
 その言葉に納得したわけではない。だが、成人するまで今まで生きてきた年月と同じ程度の時間を必要とする年齢では、あの父の言葉に逆らえるはずもない。
 まして、自分は彼から『不必要』の烙印を押されてしまったのだ。あの国に行った後、どうなるか想像が付いている。
「……必ず、必ず、お側に参ります……」
 彼にしてもそれはわかっているはずだ。それなのに、どうしてそのようなことを言うのかがわからない。
「何を言っている。私の側に来ると言うことは、ブリタニアでの全てを捨てると言うことだぞ」
 それではジェレミアのためにはならないのではないか。そう思う。
「お前達のことは兄上方にお願いしておいた。だから、私のことは忘れて自分のために生きろ」
「ルルーシュ殿下!」
「それでは気が済まないというのであれば……そうだな。私の代わりに母上とナナリーの墓に花を手向けてくれ」
 おそらく、自分は彼女たちに花を手向けることができなくなるだろうから……とルルーシュは付け加える。だから……と付け加えれば、ジェレミアの瞳から涙がこぼれ落ちた。
「マリアンヌ様も、ナナリー殿下も……ルルーシュ殿下が足を運ばれなければ、寂しく思われるでしょうに……」
 まだ、二人の月命日も来ていないのに……と彼はなおも口にする。
「しかたがあるまい。ブリタニアの国益のためには……今、日本にEUや中華連邦と手を結ばれるわけにはいかないのだからな」
 そして、他の皇女達……と言っても、現在のブリタニア皇族には女性は少ない。そして、残りの者達はみな、後ろ盾がしっかりとしている。
 母はもちろん、後ろ盾も失った自分とは条件が違うだろう……ということがルルーシュにはわかっていた。
「私が割り切っているのに、お前がだだをこねるとは、な」
 そういうところが彼らしいのかもしれない。
「……時間なのだろう、それよりも」
 遅れれば、彼が叱咤されるのではないか。そう思って声をかける。
「殿下がまだここにいらっしゃりたいとおっしゃるのでしたら、多少の猶予は差し上げられるかと」
 ジェレミアが即座にそういってきた。しかし、それが彼の独断だろうと言うことは簡単に想像が付く。
「いや、いい」
 いくら時間があったとしても、この場所に対する思いを完全に振り切ることはできるはずもない。ならば、無理にでもこの思慕を断ち切らなければならないだろう。
「私がここを後にするという事実は覆すことができないのだ。ならば、いつまでもぐずぐずしていてもしかたがないことだ」
 だから、構わない。言葉とともにルルーシュは鞄に手を伸ばす。だが、すぐにその動きを止めた。
「殿下?」
 どうかしたのか、とジェレミアが問いかけてくる。だが、ルルーシュはそれに答える代わりに、綺麗に片づけられたチェスセットに手を伸ばした。
「ジェレミア」
 それを手にして彼女は視線を彼に向ける。
「はい」
 何でしょうか、と口にしながらジェレミアは歩み寄ってきた。
「お前にこれを預けておく。次に会うときにまでにはもう少し腕を上げておけ」
 その日が来るとは思えない。
 だが、他の誰かに取り上げられて適当な扱いをされるよりは,彼に渡した方が自分としても安心できる。
「……ルルーシュ殿下……これを、私に?」
「そうだ」
 預かってくれるだろう? とルルーシュは彼に言葉を投げつけた。
「もちろんでございます。ですが……」
「今はまだ、ここの主は私だ。だから、気にするな」
 お前の所にこれがあるとわかっていれば、自分も安心できるから……とルルーシュは口にする。ここまで言えば、彼もルルーシュの意図がわかったのだろう。
「確かに、お預かりさせて頂きます」
 必ず、ルルーシュにこれを返して見せます……と彼は頭を下げる。
「……私も、お前とチェスができる日を楽しみにしている」
 せめて、クロヴィスレベルにはなっていてくれ……と付け加えた。そして、今度こそ、鞄を持ち上げる。
「では、いくか」
 チェスのセットだけでもそれなりに信用できるものに預けることができた。それだけでも胸が軽くなったような気がする。
「はい、殿下」
 小脇にチェスセットが入った小箱を抱えながらジェレミアが頷いてみせた。
「お荷物をお持ち致します」
 そして、手を差し出してくる。
「いい。重くないからな」
 それにあちらに着いたら全てを自分自身でしなければならないのだろう、とルルーシュは言外に付け加えた。
「……殿下、お願いですから」
 今の自分にできることはそれしかないのだ、とジェレミアは訴えてくる。だから、と彼は続けた。
「本当にお前は……」
 そういうところが気に入っているのだが、出世はむずかしいのではないか。そんなことを考えてしまう。
 しかし、彼にはこのままでいて欲しい。
 二度と彼には会えないだろう自分がそんなことを考えるのは傲慢かもしれない。だが、そう思わずにはいられないのだ。
「ルルーシュ殿下」
「しかたがない。車に乗るまでだぞ」
 その後は、自分には甘えられる相手がいなくなるのだから。ルルーシュは心の中でそんなことを呟いていた。

 空港に着けば、何故かそこには二番目の姉と三番目の兄がいた。
「……ルルーシュ……」
 彼らは一様に辛そうな表情をしている。
「見送りに来て頂けるとは……嬉しいです、コーネリア姉上。クロヴィス兄さんも」
 そんな二人に向けて、ルルーシュは儀礼的な微笑みと共に言葉を口にした。
「ルルーシュ!」
 彼女のそのような態度に二人は驚いたように目を丸くしている。
「ユフィにもよろしく伝えて頂けますか?」
 それに気付かなかったふりをして、さらに言葉を重ねた。
 ジェレミア以上に今の自分を気にかけていると知られると困るのが彼らではないか。そう思ったのだ。
 二人の母君は自分たちのことを疎んじてはいなかった。いや、視界に入っていなかったのかもしれない。だが、他の者達は違う。
 だから、これは丁度いい機会なのかもしれない。
 ルルーシュはそう考えていた。
 しかし、二人はそう考えていなかったようだ。
「……ルルーシュ……お前は、私たちのことを怒っているのか?」
 コーネリアが怒っているのか悲しんでいるのか判断に迷うような口調でこう問いかけてくる。
「いえ、姉上。そうではありません」
 彼女の言葉をルルーシュは静かに否定をする。
「私がこれから向かうのは異国の地。姉上方をあてにするわけにはいかぬ場所ですから」
 だから、彼らを頼りにしないよう、今から自分を律していかなければいけないのではないか。いや、もう、自分は誰にも頼ってはいけないのだろう。だからといって、ブリタニアの皇女としての矜持も失うわけにはいかない。
 ルルーシュが淡々と言葉を重ねていたときだ。
「ルルーシュ、すまない!」
 言葉とともにクロヴィスの腕がしっかりと彼女の体を抱きしめてくる。
「私たちに力がないばかりに、あのような国に人質同然の立場でお前を行かせてしまう」
 ただでさえ、今が一番心細い時期なのに……と彼は口にした。それは、間違いなくルルーシュの身を案じてくれてのことだろう。
「しかたがありません。あちらの条件に合うのが私しかいないのですから」
 ユーフェミアを向かわせるわけにはいかないのだし……とそうも付け加える。
「そのようなことは関係ない」
「確かに。その気になれば断れたはずの話だ」
 コーネリアが困ったようにこう言ったのは、状況が違っていれば自分ではなく彼女の実妹であるユーフェミアがこの立場だったからだろう。
 もっとも、その時は確実にこの話はなかったことになっていたはずだ……とルルーシュですら思う。
「ですが、それでサクラダイトを他国に奪われるわけにはいかないのでしょう?」
 だから、しかたがないことだ。自分に言い聞かせるようにルルーシュはこう口にする。
「しかたがないこと、ですませたくないのだよ、私は」
 もっとも、今の自分にできることはこの程度のものだが……と泣き笑いのような表情を作りながらコーネリアがルルーシュの手に小さな包みを握らせる。
「姉上?」
「何かあったときに使え。もし、最悪の事態が起きたときには、必ず私たちの誰かがお前を迎えに行く。だから、何をしてもいい。必ず生き抜け」
 それはここにいる二人だけではなくシュナイゼルも同じ気持ちだ。もちろん、ユーフェミアもまたルルーシュと一緒に過ごしたいと思っている……と彼女は口にする。
「もちろん、何もないことが一番なのだが」
 何もなければ、結婚式の時にはきちんと祝福にいこう、と彼女はさらに言葉を重ねた。
「その時には私も必ず行くからね、ルルーシュ!」
 はたしてそんな日が来るのかどうかはわからない。だが、二人が本心からこう言ってくれていることは十分に伝わってきた。
「……その日が来ることを、楽しみにしております。それまで、みなさま、ご壮健でいてくださいませ」
 だから、ルルーシュも素直にこう口にする。
 そのままクロヴィスの腕から抜け出すと、静かに用意された飛行機――それは皇族専用機ではなかった――へと向かった。




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07.11.23 up