目の前に置かれた最後の一枚に署名を終える。そのまま、クロヴィスはペンを置いた。
「……総督閣下」
 呼びかけられた声の方向に彼は視線を向ける。
「今日の仕事は、これで終わりかな?」
 にこやかに問いかければ、側に控えていた秘書官が微かに頬を赤らめた。やはり女性に自分の笑顔は罪なのかもしれないな……とらちもないことを考えてしまう。
「それとも、まだあるのかい?」
 ともかく反応を返して欲しいものだ、と思いながらクロヴィスは再度問いかけた。
「申し訳ございません」
 それに、慌てたように彼女は言葉を返してくる。
「本日のご公務は、その書類で最後でございます」
 この言葉に、クロヴィスは満足そうに頷く。
「では、私はこれで解放された訳だね」
 そしてゆっくりと立ち上がった。
「さようでございます」
 この言葉を聞くまえに、彼は既に行動を開始する。大股に通路へと歩き出す。
「バトレー」
 同時に、側近の名前を呼んだ。
「ここにおります、クロヴィス殿下」
 すっと姿を現した恰幅のよい男に向かってクロヴィスは頷く。
「出かけてくる。用意は?」
「できております。あちらにもご連絡を入れておきました。妹君は体調次第でおやすみになっている可能性もおありだそうですが、あの方は何時でもお待ちしておりますと」
 そうおっしゃっておられました……と言う彼にクロヴィスは無意識に時計へと視線を向ける。
「今なら、まだ、夕食時か?」
 クロヴィスの趣味で整えられている総督府の調度は、効率性よりも芸術性の方を優先しているものが多い。彼が視線を向けた時計もその例に漏れず華麗な装飾を施されたものだ。
「多少遅うございますが」
 それでも、取りあえずはまだ妹君も起きておられるだろう、とバトレーは口にする。
「わかった。では急ごう」
 どうせなら、二人に会いたいからな……とクロヴィスは微笑む。おやすみぐらいは言える時間に到着しないといけないだろうが、連絡をしておいたのであれば、起きていてくれる可能性が高い。しかし、彼女の体調を考えれば、あまり無理はして欲しくないとも考える。
「お車の準備はできております。明日の会議までにお戻りいただければよろしゅうございますので」
 今晩はお二方とごゆっくりお過ごしください、とバトレーは付け加える。おそらく、それは彼なりの気遣いなのだろう。
「手間をかけさせたね」
 彼だけは最初から全ての事情を知っている。だからこそ、そのような気遣いをしてくれるのではないか。
「いえ。お二方によろしくお伝えくださいませ」
 その言葉に、クロヴィスは嬉しそうに微笑む。
「わかっているよ、バトレー」
 君がよろしく言っていたと伝えようと言えば、彼は申し訳なさそうに大きな体を縮めた。
 その仕草に小さな笑いを漏らすとそのまま彼はバトレーが用意してくれた車へと乗り込む。運転席には、このようなときにはいつも送迎を担当してくれるものの顔があった。
「いつものようにお願いをするよ」
 人目に付かないように、あの場所へと連れて行ってくれ。そう告げれば、彼は心得ているというように頷いてみせる。そのまま静かに動き出した車のシートにに、クロヴィスは満足そうに身をゆだねた。


 市街地を抜け、車はやがて静かな地域へと進んでいく。
 その一角に広大な敷地を持った学園がある。クロヴィスの乗った車は当然のようにその敷地内へと滑り込んでいく。
 校舎の前を通り過ぎその奥にある建物の前で車は停車した。
「では、明日の朝、迎えに来ておくれ」
 言葉とともにクロヴィスは車を降りる。
「お待ちしておりましたわ、総督閣下」
 同時に軽やかな声がかけられた。視線を向ければ、少し勝ち気な瞳をした少女が微笑んでいるのが確認できる。
「久しぶりだね、ミレイ」
 君も元気そうで何よりだ、というクロヴィスに彼女は頭を下げた。その仕草にイヤミがないのは、間違いなく彼女自身が持っている資質のせいだろう。だからこそ、彼等を任せているのだが、と心の中で呟く。
 この学園自体が、彼女とその祖父が作った彼等のための楽園。
 本来であれば、このトウキョウ租界そのものをそうしてやりたかった。だが、今は《イレヴン》と呼ばれるようになった日本人達の中には、まだ現状を認めたがらないものも多い。そのせいで、この地も完全に安全とは言えないのだ。
「あの子達は?」
「中に。お出迎えをさせて頂きたい……と申しておりましたが、ナナちゃんが少し咳をしておりましたので」
 あぁ、ナナリー様でした……と慌てたようにミレイは言い直す。
「かまわないよ。ナナリーにしてみれば、君にそのような態度を取られるのは悲しいようだからね」
 君を姉のように思っているようだ、と口にした言葉は嘘ではないだろう。ナナリーにとって実の血がつながっている兄姉たち――もちろん、例外はいるだろうが――よりも、すぐ側にいて自分を守ってくれる彼女の方がよほど《姉》と思えるはずだ。そして、自分自身もナナリーがそう考えているのであればかまわないだろうとも考えている。
「もったいないお言葉でございます」
 ミレイはこう言い返してきた。だが、あのままルルーシュが皇族の中にいたならば、彼女が彼の后になっていた可能性もある。だから、あながち嘘ではないのかもしれない。
「私は常にあの子達の側にいられるわけではないからね。信頼できる人物が側にいてくれることを嬉しいと思うよ」
 だから、そうかしこまらなくてもいい……とクロヴィスは笑う。そのまま、彼女が開けてくれた玄関をくぐったときだ。
「いらっしゃいませ、兄上」
 よく通る声がクロヴィスの耳朶を打った。視線を向ければ、何よりも美しいと思うアメジストの瞳が自分を見つめているのがわかる。
「ルルーシュ!」
 それを確認した瞬間、クロヴィスは彼の元へ駆け寄っていた。そのまま、同じ年代の少年にしては華奢としか言いようがない体を抱きしめる。
「出迎えに来てくれたのかい? 嬉しいよ」
 ぎゅっと抱きしめれば、触れあった場所からそのぬくもりが伝わってきた。それに安堵感を覚えるのは、きっと、このぬくもりを一度は失ってしまったと感じていた時期があるからだろう。もちろん、それを信じていたわけではないが、それでも再びこの手に取り戻すまでのあの絶望感を忘れることはできないのだ。
「兄上、苦しい……」
 そのせいで、彼を抱きしめる腕に予想以上に力がこもっていたらしい。ルルーシュが本当に苦しそうな口調でこう言ってきた。
「あぁ、ルルーシュ、すまない。久々だったから、つい」
 言葉とともに、クロヴィスはルルーシュの体を解放する。
「兄上がそのような方だというのはわかっておりますから」
 小さなため息とともにルルーシュがこう呟いた。その声音に、ほんの少しだけだがあきれているような響きが滲んでいることにクロヴィスは気付いていた。だが、それでも彼の瞳には自分に対する愛情が浮かんでいる。だから、そのくらいはかまわないだろう。それに、彼のこんな口調は昔からだ。
「ただ、ナナリーにはしないでくださいよ」
 あの子は目が見えないし、体が弱いのだから……とさらに言葉を重ねられる。
「わかっているよ。だから、ナナリーの分も君にしているんじゃないか」
 理屈になっていないとわかっているこの言葉に、ルルーシュは思わず目を丸くしている。誰よりも優秀な頭脳を持っているこの異母弟が、実はアクシデントに弱いと言うことは最近確信した事実だ。
「と言うことで、ナナリーの所に案内しておくれ。熱があると言うことだが」
 この言葉に、ルルーシュは小さく頷いてみせる。そのまま、彼はゆっくりと歩き出した。
「夕方、庭園の方にいましたので……」
「止めなかったのかい? 珍しいね」
 その隣を当然のように歩みながら、クロヴィスは問いかける。
「理由が理由でしたので」
 止めたくても止められなかった……とルルーシュはため息をつく。
「理由?」
 何なのだろうか、とそう思う。
「リビングへ行けばわかりますよ」
 こう言われては、クロヴィスとしてもこれ以上何も言えない。
「あぁ、そうだ。今度、一度本国に戻らなければならないのだが……何か、あちらから買ってきて欲しいものはあるかな?」
 クロヴィスは話題を変えるように代わりにこう問いかけた。
「俺は特に……あぁ、ナナリーに新しいワンピースを買ってきてくださいますか?」
 暖かくなるから、そろそろ新しい物を用意しないといけないと思っていたのだ、とルルーシュは笑う。
「それなら、ルルちゃんだって。背が伸びて、少しきつくなっていたって言っていたじゃない」
 今まで黙って二人の会話を聞いていたミレイが不意に口を挟んでくる。
「ミレイ!」
 慌てたようにルルーシュは彼女の言葉を封じようとその名を口にした。
「なるほど。それでは、二人分の服を探してこよう。ルルーシュ用のはできるだけ、シンプルなもの、だね」
 フリルだろうがレースだろうがナナリーもルルーシュも平然と着こなしてくれるだろう。だが、ルルーシュはそれをいやがるのだ。それがわかっているから、自分の趣味を押しつけるのは一回につき一着だけとクロヴィスは決めている。その代わり、材質だけ吟味させているのだが。
「そうしてください……」
 クロヴィスの考えを読み取ったのだろう。ルルーシュはどこか疲れたようにこう呟く。
「……ルルちゃん、女装も似合うのにね」
 そんな彼をからかうようにまたミレイが爆弾発言を口にしてくれた。
「ミレイ!」
 ルルーシュは今度こそ慌てたように彼女に飛びかかる。しかし、そんな彼の行動を彼女は予想していたのだろう。さっさと逃げ出していた。
「総督閣下、それでは邪魔者は消えますので。ご家族で楽しい時間をお過ごしくださいませ」
 それでも、礼儀を忘れないあたり、流石だと言うべきなのだろうか。
「ミレイ!」
「ルルーシュ、落ち着きなさい。取りあえず、着て見せてくれとは言わないから」
 女装をしたら、きっとマリアンヌにそっくりな美女になるだろう。その姿を見たいとは思うが、今、ここでそんなことを言えば彼がどれだけ怒り狂うかは想像が付いてしまう。
「当たり前です! そんなことを口にされたら……俺は二度と兄上に協力しませんからね!」
 予想通りの言葉を彼は口にしてくれる。
「それは困るね、いろいろな意味で」
 だから、わがままは言わないよ……とクロヴィスが付け加えたときだ。ちょうど、ルルーシュ達がリビングとして使っている部屋の前に着く。
「ナナリー。兄上がお着きになったよ」
 そういって彼は室内へと足踏み入れる。その後をクロヴィスも当然のように付いていった。その次の瞬間、彼の鼻腔を甘い香りが満たす。
「……バラ、かい?」
 思わず、こう呟く。そのまま室内を見回せば、この季節には珍しい淡い紫色のバラの鉢が一つ、窓際に置かれているのが見えた。そして、その前に車いすに座った小さな少女の姿が確認できる。
「クロヴィスお兄様?」
 クロヴィスの声が耳に届いたのだろう。ナナリーがゆっくりと車いすの向きを変えている。
「そうだよ、ナナリー。熱があるとルルーシュが心配をしていたが……どうしたのかな?」
 そんな彼女の側にクロヴィスは大股に歩み寄った。そのまま、ためらうことなく床に膝を着くと、その小さな手を取る。
「ようやく、バラが咲きましたの。ですから、見て頂こうと思って」
 自分では確認できないから、と少しだけ寂しそうな口調で彼女は続けた。
「綺麗に咲いているよ。だから、心配しなくてもいい」
「そうですか?」
 よかった……と彼女はほっとしたように微笑む。
「それなら、お兄様……今度、本国に戻られるときにこれを持っていってくださいませんか? そして、お母様のお墓の側に植えて頂けませんでしょうか」
 自分たちはもう、そこに行くことができないから……と彼女は続けた。おそらく、ルルーシュもその言葉を聞いていたからこそ、彼女を止められなかったのだろう。
「もちろんだよ、ナナリー。必ず、マリアンヌ様の所に届けてあげよう」
 だから、もう無理をしてはいけないよ、と付け加えればナナリーは小さく頷いてみせる。
「そこまでにして、取りあえず食事にしませんか?」
 そんな彼女の仕草に涙をこぼしそうになってしまったクロヴィスに気付いたのだろうか。ルルーシュが優しい声でこう提案をしてくる。
「あぁ、そうだね。今晩は泊まっていけるからね。だから、ナナリーも安心して今日は早く寝なさい」
 そうすれば、朝食も一緒に取れるよ、とクロヴィスは続けた。
「はい、お兄様」
 この言葉に、ナナリーがふわりと微笑む。
「では、私が車いすを押してあげよう」
 ようやく取り戻すことができた幸せな時間。それをもう失いたくない。クロヴィスは心の中でそう呟いていた。




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07.04.01 up