20
記憶の中にあるように、この国の空気は独特の湿り気を帯びている。だが、今は梅雨の季節ではないから、それが心地よく感じられた。
だが、こちらは違う。ルルーシュは心の中でため息をつく。
枢木ゲンブをはじめとする日本の首脳陣は、今も変わらずに反ブリタニアらしい。
「これは、私の弟のルルーシュです。貴国の文化に興味があるというので連れてきました」
彼らの視線を気にする様子もなく、いつもの笑みとともにシュナイゼルが言葉を口にした。
『ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアです。ご迷惑をおかけすると思いますが、よろしくお願いします』
同じように邪気のない笑みを浮かべると、ルルーシュはあえて日本語で挨拶をする。その瞬間、ゲンブ達の目が大きく見開かれた。
『日本語が?』
『日常会話程度ですが……』
ブリタニアでは嫌われるがこの国では謙遜をするのが美徳だったはず。そんなことを考えながら、言葉を返す。
『そうですか……失礼ですが読む方はどのくらいおできになります?』
これは警戒されているのだろうか。
『とりあえず、ふりがながついていれば何とか。漢字の読みが一種類ではないので、覚えきれません』
自分くらいの年齢であればこのレベルだろうか。昔見た、この国の教科書を思い出しながら言う。
『それはそれは。ずいぶんと勉強をなされたのですね』
『読んでみたい本がありましたので』
それはレプリカだ。本物がこの国の博物館に収められていたはず。
『読んだらおもしろかったので、実物を見てみたいと、父上と兄上に無理を承知でお願いしました』
あくまでも、この国の文化に興味がある。だから、だだをこねて連れてきてもらった。そういう態度を崩さない。
『そうですか』
ルルーシュの言葉をゲンブがどこまで信じたのかはわからない。だが、多少のインパクトは与えたはずだ。
「ルルーシュ?」
今の会話の意味がわからなかったのだろう。シュナイゼルが声をかけてくる。
「どうやら、僕の日本語は皆さんに通用するようです、兄上」
微笑みながら、ルルーシュは彼にこう言った。
「そうかい。よかったね」
柔らかな笑みとともに彼はうなずいてみせる。
「クルルギ首相。このような子ですので、ご迷惑をかけるかもしれませんが、大目に見ていただけますか?」
自分達が話し合っている間、ルルーシュには自由にこの国を見学させる予定だ。もちろん、普段から彼に付いている護衛の他に大使館からも人をつける手はずになっている。
シュナイゼルは微笑みのまま、さらに言葉を重ねた。
「それに関しては、明日までお待ちいただけますか? もちろん、ルルーシュ殿下のご希望に沿うようにはさせていただきましょう。我が国に興味を持ち、真剣に学んでおられるお方の芽を大人の都合で摘むわけにはいきませんから」
例えそれがブリタニアの皇族であろうと、と続けられたような気がするのは錯覚ではないだろう。
「できれば、こちらからも有能な護衛とガイドをおつけしたいと思いますので」
彼はさらにそう付け加えた。
護衛と言うよりは監視ではないか。
「かまいませんよ。今晩の会食にはこの子も連れて行く予定ですから」
実際に自由に動けるのは明日からになる。それまでに決めてくれれば、とシュナイゼルは微笑んだ。それは圧力ではないか、とルルーシュは思う。だが、この程度のことは駆け引きの範疇と言っていいのではないか。。
「もちろんです。明日の朝までには人選を済ませましょう」
朝食後にはルルーシュが自由に出かけられるようにする。ゲンブはそう言いきった。
「よかったです。見たいと思っていた展覧会の会期が明日までだったはずですから」
微笑みながらルルーシュはそう言う。
「と言うと、国立博物館で開催されている?」
「はい。あの桐原家の宝物展です」
その中に、前に見たことがあるあの《刀》があるはずだ。
あの氷のように冷たく静謐な刃が、彼に似ている。そう考えていたのはいつだっただろうか。
結局、自分にとってのスザクはアッシュフォード学園時代の穏やかな彼ではなく、本来の感情を見せていた姿なのかもしれない。
では、彼の中に残っていた自分の姿はいつのものなのだろう。そう考えても答えにはたどり着けない。理由は簡単。その答えを教えてくれるものはこの世界にはいないからだ。
だが、その方がいいのかもしれない。
答えがわからないと言うことは、好きに想像できると言うことだ。
もう二度と、彼本人の口から自分を否定する言葉を聞かなくてすむ。そんなことも考えてしまう。
「日本刀って、僕でも買えますか?」
ふっと思いついてこう問いかけた。
「日本刀ですか?」
「はい。母へのお土産にしたいのです」
彼女は宝石や何かよりも、その方が喜ぶだろう。
「後で調べておきましょう」
「何。いざとなったら私が買ったことにすればいい」
そのくらいの融通は利かせてくれるだろう、とシュナイゼルが口を挟んできた。
「そうですね、兄上」
確かに、そういう方法もあるだろう。そう言ってルルーシュはうなずく。
「詳しいことは、後でこの方々と話をして決めておこう」
だから、ルルーシュはその間に、いろいろと見ておいで。彼はそう付け加えた。
「お願いします、兄上」
にっこりと微笑みながらルルーシュはシュナイゼルへと言葉を返す。
「マリアンヌ様に喜んでいただくのは、ブリタニアのためにもなるからね」
それは間違っていない。
だが、うかつにうなずくわけにはいかないような気がする。
「と、これは我が国の機密になるのかな?」
苦笑を浮かべると、シュナイゼルはそう言った。
「どうでしょうか」
自分にとってはそれが普通だから、とルルーシュは首をかしげて言葉を返す。
「と言うことですから、聞かなかったことにしていただけますか?」
この会話に毒気を抜かれたのか。ゲンブは小さくうなずいてみせる。
「首相……」
そのときだ。今まで呆然としていた日本側の官僚がそっとゲンブに声をかけた。
「あぁ、わかっている。いつまでも立ち話をしているのも何でしょう。ひとまずはお休みください」
彼の言葉で思い出したのだろう。ゲンブがそう言ってくる。
「そうですね。私は大丈夫ですが、この子はまだ子供ですから」
シュナイゼルの言葉にルルーシュは反論をしようとしてやめた。自分を口実にして丸く収める方がいいと判断したのだ。
「では、また、今夜」
シュナイゼルの言葉を合図に、双方の者達が行動を開始する。
十分に離れたところでルルーシュは
「あれでよかったのでしょうか」
失敗はしていないと思うが、念のためにと問いかける。
「十分だよ、ルルーシュ。君の日本語のおかげで、先手をとれたようだしね」
彼らの表情は実に見物だった。そう言ってシュナイゼルは小さな笑いを漏らす。
「お上手な日本語でした。大使館の者でも、あそこまで話せる者は少ないです」
大使が感心したようにこう言ってくる。
「この子はまじめだからね」
彼に言葉を返したのはシュナイゼルだ。
「だから、陛下もこの子を可愛がっておられる。もちろん、私たちもね」
言葉の裏に何かをにじませながら彼はさらに言葉を重ねる。
ひょっとして、大使はエル家と仲がよくない家の関係者なのだろうか。いや、それよりはヴィ家かもしれない。
後で、確認しておこう。ジェレミアなら知っているはずだ。
「わかっております」
大使がそう言ってうなずいている。
「兄上」
ともかく、とルルーシュは口を開く。
「何かな?」
「よければ、今晩の会に参加する人たちの資料をくださいませんか? 必要なことを覚えます」
失敗しないように、と続けた。
「君なら心配いらないと思うが、確かに、覚えていてもいいことかな? 今回のことで、君に話しかけようと思っている人間も多いだろう」
通訳を介さなくてもいい。それがわかった以上、とシュナイゼルもうなずく。
「大使?」
「わかっております。大使館に着くまでにすべて用意させておきます」
お任せください、と彼は言う。
本当に大丈夫なのか。一瞬そんな考えが脳裏をよぎる。だが、シュナイゼルも確認するであろうデーターに手を抜けるほど根性があるとは思えない。
だから大丈夫だろう。
問題は自分の方かもしれない。
彼の名前を見たときに、冷静でいられるかどうか。
「どうかしたのかな?」
黙ってしまったルルーシュの様子が気になったのだろう。シュナイゼルが声をかけてくる。
「いえ。ちゃんとできるかどうか。考えていただけです。ここはブリタニアではないのでいろいろと違っていることもあるだろうと」
「大丈夫です、ルルーシュ殿下。基本的は大目に見てくれるでしょう」
大使が即座にそう言ってくる。
「だといいのですが」
苦笑とともにルルーシュはそう言い返した。
しかし、会いたいと思っていたのに、実際に会えるとなるとこんなに怖いものなのか。割り切っていたつもりなのに、と心の中で呟く。
それとも、そういうものなのだろうか。
どちらにしろ、C.C.にばれたら笑われるな。それだけは間違いない。そう考えると、小さなため息をついた。