僕の知らない 昨日・今日・明日―間章―

9


 ルルーシュと名付けられた子供は、マリアンヌ譲りの黒髪と、シャルルのそれよりも深い紫の瞳をしている。
 そのせいだろうか。
 まるで彼の子供の頃を見ているようだ。
 そんなことを考えながら、まだ自分一人では立ち上がることもできない子供の体を抱きしめる。
「力加減に気をつけろよ」
 その瞬間、彼が座っているソファーの脇からこんな声が飛んできた。それがルルーシュの乳母のものではないことについては驚きもしない。
「私がそのようなまねをするとも?」
 実は、今ですらつぶしてしまいそうで怖いのに……と心の中で付け加える。
「文句は、それの母親に言え」
 昨日も泣かせていたぞ、と彼女は続けた。
「全く……子供の面倒を見るのは初めてではあるまいに」
 何故、力加減を覚えられないのか……と彼女はため息をつく。
「だから、お前は泣かすなよ? 泣き止ますのが手間だからな」
「乳母に任せればよかろう?」
 そのための乳母ではないか、とシャルルは言い返す。
「あれは追い出した」
 そうすれば、さらりとC.C.はとんでもないセリフを投げつけてくれた。
「追い出した?」
 何故、と口にする。その言葉の裏には『まさか』という感情があったことは否定しない。
「こいつが呑むはずのミルクに蜂蜜を混ぜていたからな」
 まだまだ幼い子供には毒になる可能性があるのに、とC.C.は言う。
「だが、あれは……」
 他の后妃やその公権の貴族とは関係のない人間だったはず。そう言いかける。
「そのようなもの、いくらでも偽装ができよう」
 厄介だなが、と彼女はため息をつく。
「だから、とりあえずV.V.に探すように言っておいた」
 いざとなれば嚮団から呼び寄せればいい。そう彼女は言う。
「……何故……」
 自分で自分の身を守ることもできない幼子にそのようなことができるのか。
「お前がその子をかわいがっているから、だろう」
 いつ、その子に皇帝の座を渡すと言い出すか。そんなことを考えているからだろう、とC.C.は言う。
「その前に自分達の目の前から消してしまえばいい。そう考えているんだろうな」
 それが自分達の破滅につながるとは考えていない。
「……だから、馬鹿に利用されても平気なんだろう」
「そうか」
 ならば、手を打たなければいけない。しかし、と考えていたときだ。小さな手がシャルルの指をつかむ。それだけではない。そのままそれに吸い付こうとした。
「ルルーシュ?」
 それだけで意識の奥でくすぶりかけた感情が消える。
「何だ? 腹が減ったのか?」
 それは旨くないぞ、と言いながら、C.C.が歩み寄ってきた。そして、ルルーシュの小さな頭をそっとなでる。
「ちょっと待ってろ。マリアンヌを捕まえるか……でなければミルクを持ってきてやろう」
 それまではシャルルの指で我慢していろ、と彼女は付け加えた。
「連れて行った方がいいのではないか」
「そうすると、どうしても目を離す瞬間があるからな。それよりは、お前が見ていた方がいい」
 父親だろう? と言われてしまう。
「……そういうものか」
「そういうものだ。あぁ、指がべとべとになるのは覚悟しておけよ。そのくらいの子供はなめてものを確認するからな」
 飽きるまではなめる。そうでなければ、食事をするまでは、だ。
「……そうか」
 それでは、この子供を殺すのは簡単なことではないか、と今更ながらに気づく。だから、C.C.は気を張っているのだろう。
「マリアンヌが顔を出したら、子供に食事をさせるように言っておけ」
 いくら彼女でもそのくらいはできるだろう、とC.C.はため息をついた。
「もっとも、あれはあれで問題だが」
 乳児はまだ壊れやすいというのに、力加減を覚えようとはしない……と呟く。
「それに比べれば、まだV.V.の方が子守は上手だな」
 根がまじめだからか? と首をひねりながら歩き出す。
「どうでしょうね」
 あの兄のことだから、そうかもしれない。だが、それ以上にこの子供が気に入っているのだろう。
「あ~~」
 自分から意識がそれたのが気に入らなかったのか。ルルーシュが声を上げる。
「どうした? 父はここにおるぞ」
 そう告げれば、彼はまっすぐにシャルルの瞳をのぞき込んできた。
 次の瞬間、うれしさを隠せないというように微笑んでみせる。
 それは、嘘も偽りもない、純粋な好意だ。
 今の自分にそれを向けてくれる者は少ない。子供達ですら、母親の影響か、自分にこびるような視線を向けてくるものがいるのだ。
 だが、この子は大丈夫なのではないか。
 何と言っても、母親があのマリアンヌだ。自分を裏切ることはあっても媚びることはあるまい、と思える。
「よい子だな、ルルーシュ」
 そう言うと同時にそっとその柔らかな頬を指先でつつく。
「きゃあ」
 そんな些細な刺激にもルルーシュはうれしそうな声を上げる。そのまま小さな手を振り回して、シャルルの指をつかもうとしてきた。
「楽しいか?」
 よかったな、と微笑みながら今度は反対側の頬をつつく。それにルルーシュはまた楽しげに声を上げた。
 そんな彼を見ているだけで、心の中でささくれ立っていたものが消えていく。
 それは間違いなくルルーシュの存在があるからだろう。
 こんな小さな存在が自分の中でこれほどまでに重く感じられる日が来るとは予想もしていなかった。
 あるいは、自分が知らなかっただけで、親であれば普通の感情なのかもしれない。
「こら、ルルーシュ……落ちるぞ」
 あまりに興奮しすぎたのか。ルルーシュは大きくのけぞっている。重心が高いせいか、そのまま床に落ちそうになった。それを反射的に抱き留める。
「君がいるから、大丈夫だろう」
 笑いながらV.V.が姿を現した。
「だからかな? ルルーシュがご機嫌なのは」
 よかったね、と彼はルルーシュののどを、子猫にするようにくすぐる。それが気に入ったのか。ルルーシュはまた声を上げた。
「本当に、かわいいね」
 自分のことも嫌いじゃないみたいだ、とV.V.は目を細める。
「むしろ、大好きだと思いますよ」
 そろそろ人見知りが出てきたと聞いている。実際、侍女の中には顔を見ただけで泣き出される者もいるのだ。だが、V.V.が相手ではだっこをせがむかのように手を差し出している。
「そうだとうれしいね」
 こう言いながら、彼はルルーシュの頭をなでた。
「抱いてみますか?」
 この子を、と問いかける。
「落としそうで怖いけどね」
 苦笑とともに彼はそう言う。
「いすに座って膝の上にのせるのでしたら、大丈夫ですよ。私も落としていません」
 立って抱き上げるのはC.C.に禁止された、とシャルルは付け加えた。
「彼女ならそう言うかもね」
 こう言いながら、彼はシャルル達の隣に腰を下ろす。
「あー」
 同時にルルーシュが彼の方に身を乗り出した。
「本人の希望ですよ」
 この言葉とともに小さな体をそっと彼の膝の上にのせる。そうすると、少しだけ年の離れた兄弟に見えるのは、やはり、血のつながりがあるから、だろうか。
 ルルーシュは早速、V.V.の髪に手を伸ばしている。そのまま髪の毛をつかむと、自分の方へと引っ張った。
 あれはかなりいたいのではないだろうか。
「痛いよ、ルルーシュ」
 こう言いながらも、V.V.はどこか楽しそうだ。
「本当、ずっとそばにいたいけど……無理なのが残念だね」
 C.C.に変わってほしいくらいだ、と彼は言う。
「兄さんがそこまで子供が好きだとは思いませんでした」
 先ほど自分がC.C.に言われたセリフを、ついつい口にしてしまう。
「違うよ。僕が好きなのはこの子」
 他の子供はシャルルの血を引いているから気にかけているだけ、と彼は言い返してくる。
「この子は……あの人を思い出させてくれるから」
 ある意味、自分達が一番幸せだった時間を与えてくれた人を、と彼は続けた。
「兄さん」
「きっと、同じ色彩を身にまとっているから、だろうね」
 ルルーシュの笑顔を見ていると幸せな気分になれる。そう言ってV.V.は笑う。
「だから、この子がこのまま笑っていられる世界が来るといいな、と思うんだ」
 違う? と彼はシャルルを見上げてくる。
「そうですね」
 だからといって、この子を皇帝にしたいわけではない。
 自由に生きてくれれば、それでいい。
「大きくなったら、いろいろなことを教えてあげるよ」
 だから、早く大きくおなり……とV.V.が口にしたときだ。
「そのためには食事だな」
 ほ乳瓶を手にしたC.C.が戻ってきた。
「マリアンヌはどうした?」
 てっきり彼女も来ると思っていたが、とシャルルは問いかける。
「ビスマルクが来ている。どうやら、お前を探しているようだ」
 彼が自分を迎えに来たと言うことは、何か厄介なことが起きたと言うことだろう。
「今日一日、ルルーシュと過ごすつもりだったのだが、仕方があるまい」
 この言葉とともにシャルルは立ち上がる。
「この子が寝たら、そっちに顔を出すよ」
 そんなシャルルの背中に向かってV.V.がこう声をかけてきた。
「はい、兄さん」
 そんな彼にうなずき返す。
「V.V.、ミルクの呑ませ方を教えてやろう」
 そんな彼に向かってC.C.がこんなセリフを投げつけている。
「僕にできるかな?」
「大丈夫だろう」
 不達の関心はすぐにルルーシュに戻ったらしい。それはそれで少しうらやましいような気がする。そんなことを考えながら、シャルルはその場を後にした。



11.10.28 up