何で、俺が魔王の花嫁?

002



 それからすぐに医者が飛んできた。真っ白な髭のじいさんだった。
「エレーヌ様、ようございました」
 俺の手首に指を当て脈を測りながら彼はそう言う。それに俺は首を縦に振ることで同意の意を示す
「エレーヌ様? ちゃんと声で返事をしていただかなければ」
 それに医師はこう言って顔をのぞき込んできた。
「……っ……」
 言葉で返事を返そうとするが声がうまく出ない。
「声が出ないのですか?」
 この問いに首を縦に振ることで答える。
「お口を開けてくださいませ」
 その指示に素直に従う。そうすれば、彼はのどの奥をのぞき込むために顔を近づけてきた。
「少し腫れておられますが熱のせいでしょう。声が出せないのは、使っておられなかったからですな」
 少しずつでも声を出す努力をしてください。そう付け加えられて小さくうなずいた。
「さて。今度は少しお胸のあたりを確認させていただきますかな」
 そう言うと医師は視線を横に移動する。
「侍女殿、お願いしても?」
「かしこまりました。いつも通りでよろしいですわね、ファーマン先生?」
「あぁ」
 彼の言葉を聞いて侍女がすぐに動く。と言っても、パジャマ代わりのワンピースの前についているボタンを外すだけだが。それも上から三つ。ちょうどみぞおちの上ぐらいまでだ。それから彼女は離れていく。
「失礼しますよ」
 それを確認してからファーマンがワンピースの前を少しだけくつろげた。幼女だからもっとがばっと開けてもいいだろうに、と俺は思う。だが、王族ではそういうわけにはいかないのだろう。
「少し紅くなっていますね。湿疹でも出ているのでしょうか」
 そう言いながら彼はさらに大きく開いた。
 その瞬間だ。
「……ひっ!」
 大きく目を見開くといきなり声を上げる。
「どうしたのですか?」
 彼のそんな仕草に侍女が慌てて問いかけた。そして同じように俺の胸元をのぞき込む。
 次の瞬間、彼女の目に涙がたたえられる。
「エレーヌ様、それは……それは、いつから?」
 ファーマン医師がこう問いかけてきた。それに、俺は《エレーヌ》の記憶を探るが出てこない。
 い、ま
 唇の動きだけで伝わるだろうか。そう思いながらゆっくりとくちびるを動かす。
「今、でございますか?」
 確認するように侍女が問いかけてきた。それに首を縦に振って見せる。
「後で他のものにも確認してみますが、昨日、お体をおふきしたときにはありませんでした」
 ようやく冷静さを取り戻したのか。いまだに涙目ながらも侍女はそう告げる。
「と言うことは夕べから今日にかけて、と言うことでしょうか。あるいは、エレーヌ様のお熱が下がったのも、これが原因かもしれません」
 何なんだ、それは。《俺》と言う存在が目覚めただけではなくこの紋章が出てきたことで《エレーヌ》の命が助かったと言うことなのか?
 それともこの紋章が出てきたから《エレーヌ》の意識と《俺》のそれがすり替わったのか。
 どちらが正しいのかはわからない。
 それでも、俺が生きていることだけは事実だ。
「……ともかく、陛下方にご報告せねば……」
 医師はそうつぶやくとゆらりと立ち上がる。
「エレーヌ様には今しばらくベッドで休息を。あぁ、湯冷ましぐらいならお飲みいただいてもかまいません。食事は後で厨房と相談をしましょう」
 それでも医師としての矜持が侍女へ指示を伝えたのだろう。
「かしこまりました」
 侍女も即座にこう言い返す。
「それと……このことは当分内密に。決して外部に漏らさぬよう」
「王妃様や王子様方にもでしょうか」
「王妃様には陛下から伝わるでしょう。兄君方には陛下のご判断に任せることにしたようが良いのではないかと」
「……承りました」
 二人の会話から判断をして、この胸の紋章はかなり厄介なものらしい。知られると首をはねられるとかだろうか。出来ればそれは避けたい。
 幼女という点と、ここが慣れ親しんだ世界とは違うと言うことを覗けば、改めて与えられたチャンスだ。何もしないままあの世に逆戻りというのは嬉しくない。
 しかし、今の自分では自分の身を守ることも難しいだろう。
 体力は落ちているどころかこうして上半身を起こしているもの辛い。だが、そのまま倒れるのはいかがなものかという半ば意地で座っているようなものだ。
「寝間着を直させていただきますね」
 顔色が悪くなっているのだろうか。侍女がこう言ってくる。
 そういえば彼女の名前は何なのだろう。そう考えると同時に脳裏にカミラと言う人名が浮かんでくる。他にもホノラとダニエラの二人がいるらしい。しかし、身近に使える侍女が三人とは多いのだろうか、少ないのだろうか。そのあたりのところはどこかで確認したいな、と思う。
「申し訳ありません、姫様。お疲れでございましょう。横になられますか?」
 その言葉に俺は少し考えて首を横に振る。少しでも情報を整理するためにも起きていたいのだ。
「なら、背中にクッションをお当てしましょう」
 即座にこう提案してくれるあたり、彼女は優秀なのだろう。そう思いながら今度は首を縦に振って見せる。
「すぐにご用意します」
 そう言うと彼女は離れていく。と言っても、寝室から出て行ったわけではない。ソファーからいくつかのクッションを移動させ、背中の部分にちょうどいい高さにおいてくれた。
「お水は飲まれますか?」
 間髪入れずに首を縦に振る。実際、のどがいがらっぽくてかなり不快だったのだ。水を飲めば少しはマシになるだろう。
 本当はスポーツドリンクがいいのだが、この世界にそんなものがあるはずがない。蜂蜜と塩があればそれっぽいものが作れるはずだが、声が出ない以上、それを説明することも難しい。だから、水で我慢をしておこうと思う。
 しかし、こう来るとは思わなかった。
 あるいはあるのではないかとは思っていたけどな。目の前で空のグラスにどこからともなく湧いてきた水がたたえられるとは予想もしていなかった。
 しかも、飲んでみれば冷たくておいしい。
 これが自分でも使えるようになればいいのに。そうすれば、どこにいようと水にだけは困らなくなるな、と心の中でつぶやく。
「エレーヌ様、おかわりはいかがですか?」
 さすがに二杯は飲めないな。そう考えて、今度は首を横に振って見せる。
「では、ご本でもお読みしましょうか?」
 こちらには首を縦に振った。本の中身からこの世界の文化水準や世界観がわかるかもしれない。年齢のせいか、エレーヌの記憶ではわからないことが多すぎるのだ。
「お任せください。お疲れになったら、いつでもお休みになってかまいませんからね」
 そう言いながら、サイドテーブルから一冊の本を取り上げる。カミラの行動にためらいがないと言うことは、おそらくそれは《エレーヌ》が好んでいた物語なのだろう。
 自分も楽しめるないようだといいのだが。
 出来れば、この胸の紋章についてのヒントがあればいいのだけど。それは望みすぎというものだろうか。
 そんなことを考えながら、俺は彼女の声に耳を傾けた。


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